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マニフェスト

 絵画は虚偽の装置である。それは、ゴダールにならって表現するならば、馬の表象を馬だと信じ込ませる2次元表象にほかならない。そこにあるのは、馬ではない。馬の表象なのだ。しかし、絵画の罠に飼い馴らされた者には、それが馬にしか見えないだろう。それが絵画の真実の姿なのだ。
 だからこそ、ルネ・マグリットはパイプの表象に「これはパイプではない」という文章を描き添えたのだろうし、ジャスパー・ジョーンズはアメリカ国旗の表象を描いたのだ。
 絵画は、常に人を騙して来た。それは、絵画誕生の起源からそうだろう。そのような絵画に興味はない、なぜなら、そこには虚偽しかないからだ。だからこそ、今、絵画に求められるのは、絵画の捏造する虚偽性・虚構性を捨て去り、何も表象しない、虚偽・虚構の装置ではない絵画(それを真実の絵画と呼称しても誇張ではないとするならば、まさに真実の絵画・絵画の真実である)を現実化することではなかったか。
 絵画だからこそ夢見ることを許される、何も表現しない表現・何も表象しない表象を現実化すること、それが、絵画の夢であり、絵画の理想だ(音楽もまた?)。

世界標準の現代アートを目指して

 世界標準の現代アートワールドで、究極を目指すことが私のテーマであり、それは「Art=・」という一文のコンセプトに集約される。
 しかし、それはどこを起源に生まれたのだろう?
 それは、現代アートの歴史を自分なりに分析した結果であり、あって然るべき結論であると私は信じている。 私にとっての現代アートの究極化というコンセプトの起源は、やはりマレーヴィチの絶対主義の絵画にほかならない。 白地に白い四角形を描いただけの作品と黒い正方形の作品だ。 まさにこれぞ究極と思った記憶がある。 マレーヴィチの四角形の作品に、少し遡ってモンドリアンの直交座標、いや端的に直線を接続すれば、黒い直線だけの究極の現代アート作品となるだろう。
 また現代アートの究極化として思い出されるのは、ほかでもないジャッドの箱状の作品であり、ルゥイットのキューブ(=ジャングルジムのような)作品だ。 それ以外のなにものでもない究極の現代アート作品と言えるだろう。 どこにも中心が見えない、究極とされた作品である。 特にジャッドの作品は、中心が見えないだけではない、作品の構造さえもが明確化された特異な現代アートの究極の作品である。 そしてコスースの「芸術とは芸術の定義である」というコンセプチュアルな視点を接続すれば、更に現代アートの究極化が見えて来る筈だ。
 今までの思考を私なりに総括して結論として見出されたのは、点である。 まさに「Art=・」これである。 世界標準の現代アートを究極化するなら、点の作品にほかならない。 それが究極の結論である。 同時に作品の構造さえもを明確化すること。 点こそ、究極化された現代アートのすべてなのだ。 ただし、それは草間彌生の水玉やハーストのスポットとは、似て非なるものであることは、誤解を避けるためにも、あらかじめ指摘しておきたい。 草間の水玉は多様化するための恣意的な、そして同時に彼女の幻視によるものであり、究極化とは異なるものである。 ハーストのスポットペインティングも彼の中では、ひとつの技法であり、アートなのかデザインなのかを問うあからさまな手立てにほかならない。 彼のほかの作品と合わせて多様化された作品群のひとつにほかならないのだ。 果たしてそれは究極化と言えるだろうか?
 点を描くこと、そして同時に、作品の構造を可能な限り明確化すること、それが世界標準の現代アート作品の究極化なのである。 「Art=・」それが究極のすべてである。 究極化された、世界標準の現代アート作品である
(または、塗り潰すだけの究極の絵画も?)。

絵画とは、なんとむなしいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは。
パスカル『パンセ』101ページ「第二章 神なき人間の惨めさ」より

例えば、パスカルはこんな事を言っている、「本物は平凡で、誰も賞(ほ)めやしないが、その本物を、いかにも本物らしく描くと賞められる、画家とは、何んと空しい詰らぬ職業だろう」。
小林秀雄『近代絵画』7ページ「ボードレール」より

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