RyujiOzawa

「ART=・」(Ultimate ART=究極藝術宣言)。 Almost Nothin…

RyujiOzawa

「ART=・」(Ultimate ART=究極藝術宣言)。 Almost Nothing=ほとんど何もない究極の藝術空間。 そこには・だけしかない。または究極絵画。 ※COPD発症のため積極的な外出は控え中。 https://ryjzw.jimdofree.com/

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マニフェスト

 絵画は虚偽の装置である。それは、ゴダールにならって表現するならば、馬の表象を馬だと信じ込ませる2次元表象にほかならない。そこにあるのは、馬ではない。馬の表象なのだ。しかし、絵画の罠に飼い馴らされた者には、それが馬にしか見えないだろう。それが絵画の真実の姿なのだ。  だからこそ、ルネ・マグリットはパイプの表象に「これはパイプではない」という文章を描き添えたのだろうし、ジャスパー・ジョーンズはアメリカ国旗の表象を描いたのだ。  絵画は、常に人を騙して来た。それは、絵画誕生の起源

    • 【1960年生まれ・COPD発症・現代アート制作と読書で日々是好日】

      【1960年生まれ・COPD発症・現代アート制作と読書で日々是好日00002】 「これはアートではない」と付して(=タイトルとして付して)、さまざまな画像を作品として公開し続けたら、人々の評価は如何なるものとなるのだろうか? それもこれもアートだと評価するのか? それともその行為自体をアートと評価するのだろうか? いやすべてアートではないと評価するのだろうか? その画像自体が、アートではないもの、アートだと思われているだろうもの、さまざまに混在している場合には、人々は何を基

      • 【1960年生まれ・COPD発症・現代アート制作と読書で日々是好日】

        【1960年生まれ・COPD発症・現代アート制作と読書で日々是好日00001】  コロナ禍が始まった2020年に還暦を迎えたが特に感慨もなかった。20歳の頃には自分が還暦まで生きるなどとは想像さえもできなかっただろう。コロナ禍もなんとか落ち着いてきたようにも思える2023年になり、63歳を迎えた。それはどうでも良いことなのだけれど、若い頃の無理のし過ぎで2018年だったか2019年だったかCOPDを発症した。その当時は、呼吸器内科に行き、吸入薬を処方され、急いで走ったり慌て

        • 【1960年生まれ・COPD発症・現代アート制作と読書で日々是好日】

          【1960年生まれ・COPD発症・現代アート制作と読書で日々是好日00000】 絵画とは、なんとむなしいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは。 パスカル『パンセ』101ページ「第二章 神なき人間の惨めさ」より 例えば、パスカルはこんな事を言っている、「本物は平凡で、誰も賞(ほ)めやしないが、その本物を、いかにも本物らしく描くと賞められる、画家とは、何んと空しい詰らぬ職業だろう」。 小林秀雄『近代絵画』7ページ「ボードレール」より

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        マニフェスト

          断章【00041】~【00045】

          【00041】 描かないことで描くこと。 描くことで描かないこと。 それは詭弁だろうか幻想だろうか。 その実践こそが世界標準の究極の現代アート作品である 「ART=・」の作品群だ。 藝術をしか意味しない究極の作品群。 微細な差異が延々と反復される究極の作品群。 描かないことで描くこと。 描くことで描かないこと。 その実践こそが世界標準の究極の現代アート作品である 「ART=・」の作品群だ。 【00042】 商品化され得ない無価値と思われるような作品

          断章【00041】~【00045】

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          「ART=・」MoveOfPoint00001~「ART=・」MoveOfPoint00014

          「ART=・」MoveOfPoint00001~「ART=・」MoveOfPoint00014

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          断章【00031】~【00040】

          【00031】 言葉では伝わらない。 言葉では伝えられない。 究極藝術宣言。 【00032】           ・ 【00033】 ・ 【00034】 ・ 【00035】                            ・ 【00036】 ほとんど何もない状態を愛することこそ、 究極の理想ではないだろうか。 それが究極の藝術であるだろう。 世界標準の究極の現代アート作品。 【00037】                     

          断章【00031】~【00040】

          断章【00026】~【00030】

          【00026】 60歳を過ぎてCOPDの症状がひどくなり、 いかに単なる呼吸と思っていた何気ない基礎運動が、 いかに単なる歩行と思っていた何気ない基礎運動が、 非常に体力を使い疲労するものなのだと思い知る。 少し歩いては息切れが。 過呼吸気味になり、 その場で息が通常に戻るまで待つしかない。 だから、自転車で少し外出するので精一杯。 電車に乗って美術館へ行くなど、もってのほか。 いったい過去の重度の喫煙が、こんな状況をもたらすなんて、 若い頃には考えもしなかった

          断章【00026】~【00030】

          断章【00021】~【00025】

          【00021】 何回でも言おう。 現代アートは無を、究極の無を目指すのだ。 何もないことの極致をこそ理想とする、 それが現代アートにほかならない。 それは、しかし、無を、究極の無を目指すことであって、 まったくの無となることではないだろう。 何もないことの極致を理想とするということは、 やはり何もなくなることではないだろう。 無に至るプロセスにこそ、現代アートの極致が、理想が宿るのだ。 その、無を目指す作品自体に、現代アートの極致が、理想が宿るのだ。 究極の無

          断章【00021】~【00025】

          断章【00016】~【00020】

          【00016】 それでも女性の裸体が好きだし、それでも女性の裸体画を表現したい、 そんな男性優位・視覚優位の差別化の前景化に加えて、 ジェンダーフリーを暗黙の裡に目指すようになった現在社会においても ヌード礼賛は時代に逆行するものだ。 しかし、それでも容姿を重要視するルッキズムが あからさまに蔓延する現状において、 女性のヌードを表現して何が悪いのだと言う居直りにも似た主張もまた、 多様性を考えれば有効なのだと言えるのかもしれない。 果たして今後において裸体表現が

          断章【00016】~【00020】

          断章【00011】~【00015】

          【00011】 しかし、エロスを裏テーマにして澄まして活動していたのは、 現代アートの創始者とも後年になって再評価が著しい、 マルセル・デュシャンその人にほかならない。 「階段を降りる裸体No.2」に男性便器に偽名で署名した「泉」、 「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)」、 「1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ(通称:遺作)」など 人はエロティシズムに依拠しているのに隠してやまないという発言にも 見られるように、デュシャンはエロ

          断章【00011】~【00015】

          断章【00006】~【00010】

          【00006】 日本の源流をめざすこと。 それは神道や仏教のはるか以前の自然宗教だろう。 縄文時代の、まさに、アニミズム。 同じように西洋の欧米の源流をめざすなら、 ギリシャでもローマでもなく、 ましてや一神教のユダヤ教でもなく、 太陽信仰のエジプト文明にほかならない。 (梅原猛『人類哲学序説』、岸田秀『一神教vs多神教』などを参照) 【00007】 岡本太郎が『美の呪力』や『沖縄文化論」で論じていた 「なにもないことのすごみ」に憧れる。 石や巨石、森や山など

          断章【00006】~【00010】

          断章【00001】~【00005】

          【00001】 ほとんど何もない(Almost Nothing)。 それはlessよりlessだろう。限りなく無に近い状態。 ほとんど何もないことの凄み。 【00002】 欧米で誕生した=発明されたアート、 そしてデュシャン以降の現代アート。 それはガラパゴス化した日本では受け入れらず、 欧米からしたら非アートの不思議な王国としか認識されないだろう。 そのほんのひと握りの作家のみが 欧米で現代アートとして評価されているのは、 そのためであると言って過言ではない。

          断章【00001】~【00005】

          【究極思考00026】再びマニフェスト

           世界標準の現代アートワールドで、究極を目指すことが私のテーマであり、それは「Art=・」という一文のコンセプトに集約される。  しかし、それはどこを起源に生まれたのだろう? それは、現代アートの歴史を自分なりに分析した結果であり、あって然るべき結論であると私は信じている。 私にとっての現代アートの究極化というコンセプトの起源は、やはりマレーヴィチの絶対主義の絵画にほかならない。 白地に白い四角形を描いただけの作品や黒い正方形の作品だ。 まさにこれぞ究極と思った記憶がある。

          【究極思考00026】再びマニフェスト

          【究極思考00025】

           ルネ・マグリットは、パイプの絵(=表象)を描き、「これはパイプではない」とタイトルを付けた。それは、これはパイプの絵(=表象)であり、パイプそのものではないという言葉遊びでもあったのだろう。ミシェル・フーコーは、この幾つかの作品に反応し短い論文を発表さえした。しかし、マグリットの主張は、いつだったかジャン・リュック=ゴダールが、映画とは馬の映像を馬だと信じ込ませる詐術であると語ったことを思い出させはしなかったか。  マルセル・デュシャンは、「階段を降りる裸体No2」という立

          【究極思考00025】

          【究極思考00024】

          (これは、「ART=・」の作品解説以外は、自分の妄想=虚構である。)  岡本太郎は、類稀な著作である『美の呪力』や『沖縄文化論』などで、「何もないことのすごみ」、「何もないことのすごさ」という表現をしている。そこでは石があるだけ、石組があるだけ、または木と石の組み合わせだけしかないことが驚きを持って語られていた筈だ。いわゆる絵画や彫刻のようには何も残っていない、そこには祈りや儀式が為されていただろう痕跡らしきものが残されているだけだ。岡本太郎は、そこに何も語らないが多くを指

          【究極思考00024】