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感性は信じられない

※これは2019年12月21日にMediumに投稿されたものです。

今回は少しだけ、創作の裏側を書いていこうと思います。

演劇って何をしているのか分からない、凄く閉じられたコンテンツになってしまっていると思っています。しかし時代が進んでいくにしたがって、あらゆる情報が簡単に手に入るようになりました。僕たちは、沢山の情報の中から自分に興味のあるものを選び、実際にそれに触れ合うかどうかを決めています。だから、演劇だって創作の過程や演劇論まで含めて全ての情報をオープンな状態にして、それらを「観に行くか、行かないか」の判断材料として使ってもらえる状態にしようと思いはじめたので、その試みの一環としてこの文章を書くことにしました。

※1 こういう裏側は知りたくない人も少なくないと思っているので、なるべく情報の取捨選択がしやすい形で公開していけたらなぁと、方法をいろいろ考えています。

※2 文中「実験」というワードを使っていますが、実験を主目的とした公演を行ったことはありません。いくつかの創作過程を今の自分の立場で総合的に考察した時に、「考察する」という行為までを含めると、実験というワードが適切だと判断したので「実験」というワードを使っています。

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感性=個別化された世界

まずは、僕の創作の根底にある感覚を書いておきます。

僕の身の回りには、何かを創作するにあたって「自分自身の感性¹」に絶対の信頼を置いている人が少なからずいます。稽古場で演出から飛び出す言葉として

「なんとなく、違う」
「そこはもっと感情的に!」
「なんか、良い感じに動いてて」

といった、抽象的なものを用いる人も少なからずいます。それらの言葉が使われているときは、たいてい演出がイメージしているものと異なる演技を俳優が行っています。そして、俳優との間に生じているズレの正体を考察する事もなく、俳優への「ダメ出し」という形で一方的に演出のイメージを具現化する事を要求します。

正直に言いますと、19歳までの自分もそういったタイプの演出家でした。今となっては、俳優さんに土下座して謝りたいほど愚かな演出家でした。
これらの抽象的な言葉が飛び出す原因として、演出家が自分自身の感性に自信を持っていることが考えられます。自分が面白い(美しい)と思うものが面白い(美しい)という感覚が大きいのです。それらの感覚は、画家や詩人、作曲家といったような個人で行える創作においては重要な感覚だと思います。

しかし僕は、演出家が創作の場² で、この感覚を創作の根拠として用いることに反発します。もちろん、最終的に完成したものが自分ですら「面白い」と思えなければ、その作品が普遍性をもっているか疑問です(それは、自己が社会との関わりを一切失っていることと同義だからです)。ですが、演劇の創作というのは、個人で行うものではありません。その創作には、自己を除く複数人の表現者の介入が不可欠なのです。

僕たちが、誰かと表現方法を共有する時、どうしても言語やそれに近い理性的なコミュニケーション方法を用いなければなりません。また、理性は論理的に「面白い(美しい)ものは何か?」を導き出そうとします。過去の経験を統合したり、心理学的な観点から創作を試みたり、名作と呼ばれる作品に共通する構造を解き明かしといったさまざまな方法で、普遍的に受け入れられる作品を作ろうと試みます。

それにも関らず、感覚的な領域のみで何かを創作するということは、それらの作用の一切を排除するということです。

また、創作というの個人の喪失と同義だと考えられます。創作者は、自己の個別化された世界の中から、感性の外側への世界へと個人を表出していきます。その表出のプロセスで、何かしらの言語³ が必要不可欠となります。そして言語は、理性の働きによって扱われるものであるということは自明でしょう。そうして、完全に純度の高い感性によって個別化された世界のものとしての「自己」は、理性の働きによる表出のプロセスを経て、ある程度普遍化されることから逃れられないのです(普遍化の中で「自己(個人)」の純度は格段に落ちます)。

だからこそ、その普遍化のプロセスで自己の純度を限りなく保ち続ける為に、言語を多く獲得し、それを十全に使いこなすことが求められるのです。他者が、赤ん坊の意思を受取ることは難しくとも、ある程度言葉を覚えた子供の意思は受取りやすいのと同じです。アリストテレスを発端として、演出家や哲学者らによって様々な演劇論(悲劇論)が展開されてきたことからも、理性による考察がいかに重要か理解して頂けると思います。

それでも、自分は自分の感性を信じるというのなら、それを止めることはできません。おそらくそういった人々は、シラーやワイルド、ワーグナーといった偉大な演劇人を超える「天才」なのでしょう。これからの歴史にぜひ名前を残して頂きたいと思います。

補足すると、感性によって個別化された世界を生きる我々は、他の世界と分かりあうことが極めて難しいと言えます。演出家個人の感覚が、そのまま俳優の感覚と一致するとは到底考えられません。だからこそ、演出家は自己のイメージを、どういった言語で表出するかを徹底的に考えなければならない。演出家の「あたりまえ」がその他大勢にとっての「ありえない」である可能性も否定できません。また、イメージのズレの問題も起こりえます。俳優に“ペンを持った演技”を要求したとして、同じ「ペン」というワードから連想されるものはボールペンかもしれないし、サインペンかもしれないし、鉛筆を思い浮かべる人だっているかもしれない。演出はボールペンを指して「ペン」という言葉を選んでいても、俳優は「サインペン」をイメージして演じていた場合、双方の間に生じたズレを演出家は冷静に考察するべきにも関わらず、感性に頼った演出家はズレばかりを(一方的に)指摘して、ズレの原因を探ろうとしない。そして終いには俳優の実力を疑い始めるのです。

自分の感性を信じられない

最後に、個人的なお話をして今回の記事を締めくくりたいと思います。
今回の記事のタイトルでもあるように、私は自分自身の感性を信じていません。恥ずかしながら、僕も「自分の感じる“面白い”が、疑いようもなく“面白い”ものだ」と考えていた時期がありました。初めの方にも述べましたが、大学2年生になるまでの僕は自分自身の感性にしたがって演出を行っていました。しかし、その創作によって行きついた最終形にたいして満足のいく結果を得ることが出来ませんでした。

そこで、様々な創作方法を実験⁴ してきました。

現段階で言えることは、感性に頼った作品は観客の約7割には全く届かない(響かない)結果に終わると言う事です。その如実な例としまして福岡学生演劇祭2019の結果を挙げてみようと思います。(この学生演劇祭というものは、一種のコンペティションであり、各団体に得点が出るものとなっています。)

自分の作品の平均得点(6段階評価)が約3.5ポイントでした。私の予測では2.5ポイントを予測していたのですが、それより1ポイントほど多くなった結果です。上演作品に関して、脚本の執筆と演出を感性的に行い、演技はそれに従うという方法をとりました(そうすることで、社会に疎外感を強く持っている人々への救済になるのではないかと考えたからです)。それまで行ってきたどの作品よりも時間や労力を費やした作品でした。

しかし、感性に頼った作品は大衆の評価を得ずらいと考え、ポイント分布を5点20%、2点80%と予測し、結果2.5(正確には2.6)ポイントの結果になるのではないか?という予測はしていました。結果としては3.5ポイントと1ポイントほど見通しを誤った結果でしたが、アンケート結果を考察するに、芝居にかけたエネルギーに対する評価として4 or 3ポイントに投票した人が一定数いたものと考察しています。大ざっぱな考察として、7割程度の人々は否定的な感情であのお芝居を観ていたと思っています。

それに対して、前年度に論理的に創作した作品の平均得点が5.2ポイントだったことを考えると、大衆芸術として、感性に頼った創作が如何に無意味なものだったかということがお分かり頂けると思います。

やはり感性と言うのは個別化された世界ですから、そんなものに頼ると近しい感性をもった人にしか届かない作品となってしまうわけです(単純なようで、実は検証が不可欠な重要な論理です)。演劇に限らず芸術には、理性と感性の均衡が求められます。また、演劇はどうしても多数の人間の感性が集まり、感性的な要素が強くなる傾向にあると思っています。そのため、脚本や演出は論理的な“規則”をもって創作する事が望ましいのです。

実は、カントやコールリッジによって言及されているように、自己の感性によって創作したものが無意識に自己の規則(自由)や自然の規則(法則)に従っている芸術家が一定数いると言われています。彼らは「天才」という名称で呼ばれます。彼らの作品は、結果として論理的な解釈も可能となります。残念ながら僕は天才では無いと結論付けられるので、今後の創作は論理的に行うしかないようです。

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¹ 【感性】ここでは感性を、「論理的に説明することのできない個人的な感覚」と「それをもたらす諸現象に対する人間の受容機能」といった2つの大雑把なニュアンスで用いています。
² 【創作の場】演劇における「稽古」や「稽古場」といった認識を包括した語として用いています。
³【言語】単純に言葉としての言語の他、楽譜や、意図された音(声)、形象などを総称した意味として使っています。
⁴【実験】ここで敢えて「実験」という名称を用いていますが、実験を目的として創作したことはありません。どういった方法で創作するか?という問いを毎回立て、その時に最も最善だと判断した創作を行ってきた結果として様々な手法を試してきた、ということです。全ての創作物において最も重要視してきたのは「作品のクオリティ」です。チケット料金以上の何かしらの価値を観客へ提供することを目的として、誠心誠意、創作を行ってきました。

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