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下手糞な文章についてクソ真面目に語ってみる #2

Google翻訳もびっくりのガバガバ理論で「下手糞」について語った前回はこちらから飛べます。

さて、今回は前回の続き。すなわち、「よいうんこ」「わるいうんこ」の定義から入ろう。よいうんこ、わるいうんこ。これは非常に難しい問題である。何せ、「よい」というのは非常に判断の難しい事象だからだ。ここから私はうんこについて語るわけであるが、うんこうんこと記事に書いていてはそのうちnote公式に垢BANされても文句が言えなくなってしまうのでここではあくまで善良な一市民としての意見であるということを踏まえていただきたい。

うんこのよさ、わるさ

うんこのよさ、わるさとは困った問題である。何せ、我々がトイレに籠ってうんこをするとき、うんこはその時に応じて様々な形をとるからである。例えば、それは水っぽいものであり、例えばバナナ型である。我々は往々にして、うんこのよさをその形状によって語りがちである。だが、例えば下剤を飲んだ後の人間にとって、水っぽいうんこはむしろ歓迎されるべきことである。(結果を行為によって期待しており、その通りになったからである)。

だが、ここで考えるべきは別に「下手糞」という言葉が「わるいうんこ」を指しているわけではないということである。下手糞という言葉はあくまで、わるいうんこではなくて、どちらかと言えば否定語を二重に重ねた、強い否定、罵倒の辞句としてとらえられるべきであって、直訳したGoogle翻訳のような安易な理解は避けられなければならない。

ここで、我々は改めて「下手糞な文章」という言葉を厳密に考える必要がある。下手糞な文章は、別に「下手糞の文章」つまり、下手糞について書かれた文章ではないということである。これは、すなわち今の僕がやっているような「下手糞」という事象について明示的に述べられた文章をさすのではなくて、「下手糞」が形容詞として文章にかかっているという点を見落とすべきではないのである。すなわちここまで僕が述べてきたすべては文字通りの不毛、無駄、蛇足だったということになる。

わるいうんこという説明は、既にその時点で「下手糞」という語の定義から逸れていることがこれで示された。無駄な道だが、だが地道な道である。下手糞な文章の謎は、トイレの汚物入れの中ではなく、我々を未知のジャングル、荒野へと未だ誘う。今度は「下手糞」という言葉を、ウィトゲンシュタイン的な、言語の使用という視点から解き明かしていくことにしよう。


例によって次回の投稿は未定である。


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