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#46【夢日記】「一番美味しく感じるご飯の食べ方とは?」

【内容】

「美味しいご飯を食べるためには『モノ』と『ヒト』のどちらがより重要なのか?」

そんなテーマで議論をしていた。

メンバーの数は10人弱ぐらいで、知り合いは居なかったように思われる。ソコの記憶は薄い。

僕は「『ヒト』の方が重要である」という立ち位置で議論に加わっていた。

加わっていた、とは書いたのだが、僕は、どちらかと言えば、みんなの話し合いを観察している時間の方が、かなり長かった。

「モノ派」と「ヒト派」に分かれ、丁々発止な言い争いが繰り広げられた末に、結論が出た。

「美味しいご飯を食べるためには『モノ』よりも『ヒト』の方が重要である」

【モノ<ヒト】という答えに行き着いたのだ。

その結果を受けて、「ヒト派」として議論を戦わせていた人が、自分が納得の行く答えで収拾がついたことに満足し、勝ち誇ったような様子で、こう言ったのだ。

「やっぱりさぁ、ご飯を食べる時は『どんなものを食べるのか』よりも『誰と一緒に食べるのか』の方が重要なのよね〜」

その発言を受けて、同じく「ヒト派」として議論を傍観していた僕は、合点が行かないといった様子で、物言いをした。

「いや、ちょっと待って。その発言は看過できない。一口に『ヒト』と言ってもさ、別に何も『みんなと一緒にご飯を食べた方が美味しいよね〜』という意味合いで、僕は『ヒト派』に属したわけじゃないよ?」

思わぬところから攻撃を受けた相手は「いったいいコイツは何を言っているんだ?」とでも言いたげな表情で、僕のことを見つめて来た。

僕の発言が上手く飲み込めず、言葉に窮している様子だったので、僕は、自らの主張を、更に続けることにした。

「僕としては『一緒に食べる』って選択肢だけじゃなくて『別々に食べる』って選択肢も尊重されて然るべきじゃないのか、って思うわけ」

「これはあくまでも一個人の意見に過ぎないのだけど、僕が、一番ご飯を美味しく食べられるシチュエーションは『好きなテレビや動画を見ながら食う飯』なんだよね」

「つまり『誰にも邪魔されない状況で娯楽物に触れながら空腹を満たす』というご飯の食べ方が、僕にとっては、至福のひとときと言えるわけ」

「で、今回の議題である『美味しいご飯を食べるためには〈モノ〉と〈ヒト〉のどちらがより重要なのか?』に当てはめた時に『ヒト』の方が重要だなぁ、と思ったから、僕は『ヒト派』として、議論に加わっていたのね」

「だから、結論として『美味しいご飯を食べるためには〈モノ〉よりも〈ヒト〉の方が重要である』という答えが出たからと言って『ヒト派』に属している人全員が、あなたと同じ気持ちとは限らないんだよ」

と、言った。

話し方としては「一気に捲し立てるように言う」というよりも「自分の考えを滔々と述べる」といった感じだった。

ただ、相手からすると、面食らったというのか、返す言葉が無い、といった調子だったので、僕としても、気まずい思いに駆られた。

せめてもの情け、というと語弊があるのかもしれないが、僕は、相手の心情を汲みつつ、言葉を付け添えることにした。

「いや、まぁ、『自分にとってかけがえのない人と一緒にご飯を食べる尊さ』みたいなものも、理解出来ないことはないよ。あなたの考えを否定したい意図はないから。傷付けてしまったのなら申し訳ない」

「ただ、僕の意見であれ、あなたの意見であれ、『私はそう思う』という域を出ないことは分かっていて欲しかったんだ。『これは〈ヒト派〉の総意である!』と我が物顔で言われるのは、僕はちょっと、違和感があるかな、って」

・・・。

一応、僕としては、フォローの意味合いで言ったつもりなのだが、どうやら、逆効果だったみたいだ。相手の方は、機嫌を損ねたらしく、その場から立ち去ってしまった。

僕は「やっぱり出過ぎた発言はするもんじゃないな・・・」と、心の中で唱えながら、口を真一文字にして、相手の方に続いて、その場から立ち去ったのだった。

そして、目が覚めた。


【振り返り】

僕らしい夢と言えば僕らしいのだけれど、せめて夢ぐらいは、もうちょっと、こう、フランクな自分で居られないものかなぁ、と、自己嫌悪に似た感情を抱いてしまう、そんな内容の夢だった。

今回の夢は、デフォルメというのか、話の筋が分かりやすい形で展開されていった印象ではあるが、組織内で議論を交わす際に、多かれ少なかれ、類似のトラブルを起こしているような気がするのも、なかなか、頭が痛い話でもある。

そんなことを悶々と考えていると、僕が、口癖のように言っている言葉を、ふと思い出した。

「○○さんと同じです、で、終わるんじゃなくて、○○さんと同じで、私は△△と考えました、という風に、話を続けてもらえないかな?」

こんな言い回しをする癖が僕はある。

これは、僕が、教職を志している頃、子どもが意見を発表する際に、教師が声を掛けるべきこととして学び、なるほどな、と感じたので、普段の生活でも応用させてもらっている問いかけだ。

「○○と同じです」で終わってしまうと、そこからは何も発展して行かない。

しかし、たとえ結論は同じだったとしても「なぜその結論に行き着いたのか?」という部分、つまり「過程」に着目すれば、他の人と、100%丸々同じなんてことは、早々起きないものだ。

そんな理由から「自分はこう思う」という意見を引き出す際に有用だと僕は考えているのだけれど、人によっては「詰問された」と感じるらしく、相手を萎縮させてしまうなんてことも、しばしば起きる。

僕の質問の仕方が高圧的だったのかなぁ、と、自省の念は持ってみるものの、それを気の置けない友人に相談してみると

「まぁ怖そうなオーラ出てるしな(笑)」

などと、身も蓋もない言葉が返って来たりするので、じゃあどうすればいいのかなぁ、大らかな雰囲気を身にまとう方法ってあるのかなぁ、なんて、頭を捻ってみるも、上手いやり方が見つからず・・・といった具合だ。

自己分析としては、元来、理屈っぽいところがあるので、自分はそんなつもりが無くとも、理詰めで食って掛かられる印象を、必要以上に、相手に与えてしまうきらいがあるのかな、と、自覚はしている、つもり、では、ある。(小声)

まぁそれも、個性と言えば個性なので、無理に直すのもどうなんだろうなぁ、と、自分で自分を許したい気持ちがあるのも事実なのだけど、どういう立ち居振る舞いがベストなのかは、日々、模索中といったところだ。

最後に一つ。

これは、僕の持論でしかないのだけど。

常に冷静沈着で居られるような人や、いつも明るく元気に振る舞ってる人だって、相手に悟られない範囲内で、模索しながらやり過ごしている面はあるんじゃないか・・・と、内心、思っている。

そういう気持ちを持っていれば「あの人は僕みたいにクヨクヨ思い煩うことがなさそうで羨ましいなぁ」などと言った風に、隣の芝生は青い、みたいな悩み事で、頭が一杯になることは、自然と無くなるものだ。

結局のところ、何においても「〜だろう」よりも「〜かもしれない」といったスタンスが大事なわけだ。かもしれない運転。安全第一。(なんの話だ?)

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