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【第2回】カープ外様選手列伝【か行】

【前回までの内容】

【まとめようと思ったキッカケ】

  • 「秋山カープ入団」の報を受けて驚きを示す人がとても多かった

  • 「カープは若手の模範になる他球団のベテラン選手を獲得するパターン結構あるよ!」という記事を書こうと思った

  • 書き始めたら「カープの外様選手って何人居るんだろう?」と気になった

  • 「どうせ書くなら記憶の中で完結させるよりも洗いざらい調べてみようじゃないか!」と思い立った

【まとめ方】

  • Wikipedia「広島東洋カープの選手一覧」を参照して生え抜き以外の選手を総当たりで調べ尽くす

  • Wikipedia内の「経歴関連・詳細成績」をスクリーンショットして貼り付ける

  • Wikipedia内の文章を筆者の独断と偏見で抜粋し引用文としてまとめる

  • 外国人選手は日本の他球団からの移籍に限定(例:エクトル・ルナ)

  • 外様出身のコーチは今回割愛(例:新井宏昌)

  • 出戻り選手は番外編として別個でまとめる(例:黒田博樹|新井貴浩)

【更新ペース】

  • 「あ行」~「わ行」の10回に分けてまとめ記事を作成

  • カープの試合が無い日に記事を投稿(間に合わない恐れ有り)

【参照サイト】

以下、画像や引用文の出典は全てWikipedia「広島東洋カープの選手一覧」


【<か>】

栫政彦(かこい まさひこ)

鹿児島高から、1983年のプロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブスから6位指名を受け入団。 技巧派の左腕で切れのいいカーブが武器だった。

198610月に森厚三との交換トレードで、広島東洋カープに移籍。一軍出場機会がないまま、1987年シーズンを最後に退団。

笠松 実(かさまつ みのる)

興國商業では1933年に第10回選抜中等学校野球大会へ出場。
横浜専門学校を中退し、1937年に阪急軍へ入団。
1941年に11勝を記録し、1942年も17勝を記録している。

1947年は日本野球連盟を離れ、国民野球連盟の唐崎クラウンで監督兼選手としてプレー。1950年に広島カープでプロ復帰し、1952年に引退した。

シュート、カーブ、ドロップを武器としていた。

片平 哲也(かたひら てつや)

銚子商業高では、3年次の1985年に同期の大川隆と投の二本柱を組み、同年の夏の選手権に出場する。本戦の1回戦では、自身が先発を務め、大川は1番・中堅手として出場するが、この大会で準優勝した宇部商業高の田上昌徳(新日本製鐵光)に抑えられ敗退した。真上から投げ下ろす速球は威力があり、前評判は高かったが制球難が災いした。

(中略)

1985年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから投手として2位指名を受け入団した。高校同期の大川は横浜大洋ホエールズから3位指名を受けた。

プロ2年目の1987年から外野手に転向し、同年に一軍初出場を果たす。同年はシーズン終盤の6試合に左翼手として先発出場。同年は打率.393を記録し大きく期待されるが、その後は伸び悩む。

198811月、片岡光宏・斉藤浩行との22の交換トレードで、本村信吾と共に広島東洋カープに移籍。1989年はMLBのマイナーリーグ1Aのペニンシュラ・パイロッツに野球留学した。1991年には投手に再転向するが、一軍登板機会はなく同年限りで現役引退。

片山 博(かたやま ひろし)

若松中学から住友金属、門司鉄道局を経て、1948年に急映フライヤーズへ入団。1949年に16勝を挙げ、延長20回を一人で投げ抜く試合もあった。

サイドスロー気味の変則フォームから繰り出されるシュートと、縦に落ちるカーブを得意とした左腕投手、1950年からは大洋ホエールズに移籍し、14勝を挙げるも前年の登板過多もあり左肩と腰を痛めてしまい、1951年は僅か3勝に終わった。

同年に後楽園に日米野球で来日していたボビー・シャンツの外野での牽制練習を見て、ヒントを得て創意工夫をこらして習得した。牽制でファンを沸かせ、吉田義男ら他球団の俊足走者に嫌がられた。

(中略)

1953年からは広島カープに在籍し、同年は9月から10月にかけてセ・リーグ歴代2位の50イニング連続無四球を記録したほか、20個近い牽制死を奪っている。

1954612日の国鉄戦(高崎城南)では3-3で迎えた9回、広島は先発松山昇の代打金山に代えて片山がリリーフしたが、安居玉一に初球を左翼席へサヨナラ本塁打を打たれ一球敗戦投手になっている。

白石勝巳監督は最初、エース長谷川良平を指名したが調子が悪いということで片山が56球投げただけで指名されたが、カーブを左翼へ運ばれた。黒岩弘を救援した国鉄の北畑利雄は2球で勝利投手になった。

1955年引退。

加藤 伸一(かとう しんいち)

倉吉北高校1年次の1981年から速球派投手として期待され、練習試合ではあるが、鳥取西戦でノーヒットノーランも記録している。

最上級生に進級した1983年にはチームの不祥事で対外試合禁止処分となってしまい、結局、加藤の公式戦登板は2年次の1982年夏の1試合(38鳥取城北高校)のみであったが、この試合での登板がスカウト達の目に留まった。

同年のドラフト会議にて南海ホークスから1位指名を受け、入団。鳥取県の高校生として史上初のドラフト1位指名でもあった。当日、学生服のまま校内で他の部員らに胴上げされている映像がニュースで流れた。

(中略)

1996年シーズンに広島東洋カープにテスト入団を果たす。

オープン戦期間中に肉離れを発症したが、それを隠して開幕から先発ローテーション入りし、2度目の登板の417日横浜戦で643日ぶりの勝利投手となった。6年ぶりに規定投球回に達して9勝を挙げ、カムバック賞を獲得するなど再び活躍を見せる。

1997年シーズンは15敗で防御率も7点台の不調に終わった。オフの契約更改で球団側の減額制限を大幅に超える契約金額提示に納得がいかなかったため、加藤自らの希望にて、翌年オフに自由契約になって退団する約束を球団側にとりつけた。

1998年シーズンは年間通じてローテーションを守り、安定感のある投球で規定投球回数をクリアし、防御率は自己最高の2.9986敗の成績を収めた。

8月時点では防御率2点台と規定投球回到達は微妙な状況だったが、秋口に加藤がオフに退団することを知った広島監督の三村敏之による、加藤が好条件で移籍できるようにとの配慮により、シーズン最終登板で規定投球回と防御率2点台を達成した。

加藤 哲郎(かとう てつろう)

宮崎日大高では、エースとして1982年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、延岡西高に1-0で惜敗。同年のプロ野球ドラフト会議にて近鉄バファローズから1位指名を受けて入団。契約金3700万円、年俸340万円、担当スカウト河西俊雄。

速球とフォークボール、権藤博から教わったチェンジアップを武器に1986年から徐々に頭角を現し、主に中継ぎとしてチームに貢献した。

(中略)

199311月に近鉄を自由契約となり、入団テストを経て広島東洋カープへ移籍。広島ではサイドスローへ転向し、通算150試合登板を果たすも1年で戦力外通告を言い渡される。

199411月、福岡ダイエーホークスの入団テストを受け合格する。

1995年のシーズンは一軍登板がないまま戦力外通告を受け、現役を引退した。

(中略)

近鉄と巨人が対戦した1989年の日本シリーズで、加藤は1024日の第3戦(東京ドーム)に近鉄の先発投手として登板。挙式を控えた婚約者も観戦する中、61/33安打無失点に抑え勝利投手となり、近鉄は3連勝で日本一に王手をかけた。

その試合後のヒーローインタビューで加藤が「別に、とりあえずフォアボールだけ出さなかったらね、まぁ、打たれそうな気ぃしなかったんで。ええ、たいしたことなかったですね。シーズンの方がよっぽどしんどかったですからね、相手も強いし」と発言したことが、各種メディアにより「巨人は(シーズンで最下位だった)ロッテより弱い」という見出しで報じられた。

加藤自身は、1024日の試合後のダッグアウトで報知新聞の近鉄担当記者から「(巨人は)ロッテより弱いんちゃうの?」と振られ、「あれだけええピッチャーおったら(リーグ)優勝するで。でも打線はアカンなぁ」と答えたら、後半部分だけが「巨人はロッテより弱い」という話にすり替えられたと、二宮清純との対談で主張している。

加藤秀司(かとうひでじ)

1968年の都市対抗では同僚の福本豊・岡田光雄と共に富士製鐵広畑の補強選手として出場し、4番打者として活躍。岡田と神部年男の好投もあって決勝に進出し、河合楽器を降しチームを優勝に導く。

同年のドラフトで阪急ブレーブスから2位指名を受け入団。この時の1位指名に山田久志、7位指名に福本と、後の名球会会員となる3人を獲得することとなった。

加藤を視察に来た阪急の関係者が「ついで」として福本をリストアップしていた経緯があり、著書で福本は「松下電器に加藤がいたおかげで、僕も阪急ブレーブスの一員になれた」と記している。

(中略)

1982年に打率.235の成績に終わると、上田利治監督による若手切り替え方針に則り、水谷実雄との交換トレードにより広島東洋カープに移籍。広島ではまずまずの成績を収めていたものの、シーズン半ばで肝炎を患い休養、さらにドラフトで同じ一塁手でPL学園高の後輩でもある法政大の小早川毅彦が2位指名で入団。

1983年のシーズン終了後、福井保夫・森脇浩司との交換で大原徹也と共に近鉄バファローズに移籍。

(中略)

1985年には指名打者として打率.28626本塁打の成績を残した。

1986年に読売ジャイアンツに金銭トレードにて移籍。510日の広島戦(広島市民球場)で4回表に北別府学から3ラン本塁打を放って史上3人目の「全球団から本塁打」という記録を達成するものの、中畑清から一塁手の定位置を奪えずに代打での出場が目立つ。2,000本安打まで残り13安打にこぎ着けたものの、同年オフに自由契約となる。

1987年、阪急時代の監督であった西本が立教大学の後輩で当時南海監督の杉浦忠に仲介し、南海へ移籍。西暦と同数の1987安打で開幕という点も注目されつつ、57日の阪急戦でかつての同僚・山田から本塁打を放ち、2,000本安打を達成。同年限りで現役引退。

門田 純良(かどた すみよし)

今治南高から、社会人野球の愛媛相互銀行へと進み、谷山高明とともに主力投手として活躍。1970年のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから3位指名される。

(中略)

大型右腕投手として期待され、1年目の1972年から一軍に上がり、10月には初先発を果たす。

しかしその後は伸び悩み、1976年オフに金城基泰とのトレードで松原明夫と共に広島東洋カープへ移籍。ここでも活躍の場は少なく、1979年限りで現役を引退。引退後は、1983年まで打撃投手を勤めた。

金山 次郎(かなやま じろう)

豊国商業(現豊国学園高)から1943年に名古屋軍へ入団。

(中略)

1950年、2リーグが分裂で赤嶺昌志のセ・リーグ総務の就任に伴いセントラル・リーグの松竹ロビンスに小鶴誠、三村勲と共に移籍。

この年、三村勲との12番コンビ、小鶴誠・岩本義行・大岡虎雄のクリーンナップトリオで水爆打線と呼ばれた強力打線を形成し、セ・リーグの初代チャンピオンとなった。

また自らは74盗塁で初の盗塁王を獲得、この74盗塁は1948年度河西俊雄(南海)の66盗塁を上回る新記録だったが、同じ年に木塚忠助(南海)が78盗塁を記録したため、セ・リーグ記録にとどまった。

しかし1983年に松本匡史(巨人)に76盗塁で破られるまでのセ・リーグ記録であり、現在でもセ・リーグ歴代第2位の記録である。

(中略)

1952年、63盗塁で2度目の盗塁王を獲得。

1953年、石本秀一に要請され、小鶴誠・三村勲・片山博と共に広島カープに移籍。ここでも一番打者、二塁手として活躍し、58盗塁で3度目の盗塁王を獲得、広島カープの走る野球の原点となり、人情味あふれる人柄もあわせて「金山が広島を変えた」と言われた。

19558月、史上初となる400盗塁を達成。

1957年に内野守備コーチ兼任となる。同年シーズン限りで現役引退し、引き続き1958年から1961年まで広島の内野守備走塁コーチを務めた。

1962年、中国放送の野球解説者となり、1975年のカープ初優勝を果たした試合での解説は、ファンの語り草となっている。 歓喜と熱意で迎えてくれた広島を愛し続けた。

金田 留広(かねだ とめひろ)

元プロ野球選手の金田正一、金田高義、金田星雄は実兄。金石昭人(姉の息子)、金田賢一(長兄・正一の息子)は甥。

(中略)

1968年の産業対抗では準決勝で先発、6回を好投し田中章との継投で日本軽金属に完封勝利。決勝でも先発し全鐘紡の藤原真と投げ合うが、早々に打込まれ敗退した。同年のドラフト4位で東映フライヤーズに入団し、兄・正一と同じ背番号34を着けた。

(中略)

1973年はシーズン通じて打線との噛み合わせが悪く負けが込んでしまい、前期は途中6連敗もあって59敗に終わる。後期もピッチング内容の悪い試合が続き、5連敗もあって27敗となり826日の太平洋戦(後楽園)でライナーを右手人差し指に当てて骨折、この試合がシーズン最後でありフライヤーズの選手としても最後の試合となった。

1974年、野村収との交換トレードで、兄・正一が監督を務めていたロッテオリオンズに移籍。

(中略)

1978年オフ、正一の辞任に伴い渡辺秀武と共に、望月卓也・平田英之・劔持節雄との交換トレードで広島東洋カープへ移籍。甥の金石昭人もPL学園からドラフト外で広島に入団しているが、金石は後に彼のコネクションで入団したと語っている。

最初は正一と長嶋茂雄監督との間で、巨人に行くことが決まっていたが、江川事件が起こる。移籍話に進展がない中で広島の松田耕平オーナーから六本木の鉄板焼き店に電話で呼ばれた。松田の「どうしても日本一になりたい。若い投手の手本となってくれ。広島市民のためにやってくれ。」が口説き文句となり、金田は心を揺さぶられた。

家族4人で引っ越して練習も必死にやったが、1979年の開幕後は敗戦処理ばかりであり、710日の巨人戦(広島市民)で我慢は限界に達した。5点差となった直後の9回に「行け」と命じられると、「誰が出られるか」と拒んだ。

その後は声も掛からなくなり、市民球場のブルペンで「何しに来たんじゃ、はよ帰れ」とやじられ、「古葉の野郎、俺を飼い殺しにしやがって」と言い返した。翌日には古葉竹識監督に呼ばれ、金田は一軍登録抹消を覚悟していたが、先発を命じられた。

「最後のチャンス」と受け止めてマウンドに上がった815日の中日戦(ナゴヤ)で、移籍後初の先発は41日ぶりの登板であった。前日には首位中日との3連戦に先勝し、1ゲーム差の2位に浮上。9連戦の真ん中の一戦となり、北別府学・池谷公二郎ら先発5本柱が、中継ぎでも登板し始めていた。

古葉は、中3日の山根和夫を使わず、金田を指名。ノーサインで水沼四郎からの返球を捕っては投げ、捕っては投げた。ポンポンと、テンポよく投げることで打者に考える隙を与えず、5回を3安打1点に抑えた。得意な打撃でも、先制点の足掛かりとなる二塁打と貴重な追加点となる本塁打を放つ、独り舞台であった。危機にあったチームを救い、「10勝の価値がある」と古葉に言わせた。

全盛期の力は既に衰え、敗戦処理や中継ぎでの登板が多かったが、持ち前の明るい性格でチームに溶け込みムードメーカーとして活躍。「最高じゃ!」が口癖であり、少し高めの大きな声で喋りだすと止まらず、「俺の一番の取りえは明るさ」と、大人しいカープベンチを盛り上げた。

次いで先発した823日の中日戦(広島市民)は、スタミナ切れを反省し71/3を投げて勝ち投手、同29日の阪神戦(甲子園)では4安打完封勝利を飾り、同月から先発陣の一角として後半戦のひと月足らずの間での4連勝を挙げる。

1980年も9試合に先発するなどローテーションの谷間を埋め、リーグ連覇に貢献。同年612日の巨人戦(後楽園)では王貞治に通算850号本塁打を打たれている。

1981816日の中日戦(ナゴヤ)では曽田康二と投げ合い、自ら8回に決勝本塁打を放ち、1-0で自身最後の完封勝利を記録。

1982年には登板機会が無くなり、同年限りで現役を引退。

川越 亀二(かわごし かめじ)

大阪商業高校から1952年に阪急ブレーブスへ入団。

1955年から始まったウエスタン・リーグでは打率.3333本塁打を記録し、リーグ最初の首位打者、本塁打王となった。

1957年に広島カープに移籍[1]1959年に引退した。

川畑 和人(かわばた かずと)

1966年第1次ドラフト会議で東京オリオンズから2位指名を受け入団、本格派右腕として期待される。

1969年には主に中継ぎとして起用され、3勝を挙げ2軍のイースタン・リーグでは防御率1位を記録。

(中略)

投球時に腕に力が入りすぎる欠点があったため、1971年の秋季キャンプ時にサイドスローにフォームを変更した。

かって小川健太郎や柿本実らを育て上げた実績を持つ近藤貞雄コーチの発案で下手の技巧派投手として再生しようとしたが、川畑本人の「どうも投げにくい」という理由で翌1972年には元のオーバーハンドに戻した。

しかしサイドスロー投法の練習をした経験によって打者の手元で小さく変化する球が身につき、棒球を投げるクセが修正され一応の効果を生んだ。ストレート、カーブ、スライダー、シュート、フォークを武器とした。

1972年オフに井上弘昭とのトレードで広島東洋カープへ移籍。

1976年にウエスタン・リーグで再び防御率1位を記録するも一軍での活躍の場はあまりなく、1976年オフに正垣宏倫とのトレードで永本裕章と共に阪急ブレーブスへ移籍。

1977年には6年ぶりの勝星を記録するが、1978年限りで現役引退。

河村 英文(かわむら ひでふみ)

別府緑丘高校では小嶋仁八郎監督の指導を受けた。4年後輩に後の同僚となる稲尾和久がいる。卒業後は東洋高圧大牟田を経て、1953年に西鉄ライオンズへ入団。

シュートを武器に1年目から活躍し、910日の毎日戦では荒巻淳と投げ合い初完封を飾る。2年目の1954年にはリーグ最多の61試合に登板し、2512敗を記録して初のリーグ優勝に貢献。

(中略)

1960年に広島カープに移籍。ここでも先発として起用され1961年には7勝を挙げるが、その後は勝星がなく1963年限りで現役引退。

引退後は西鉄太平洋一軍投手コーチ(1972 - 1973年)、南海一軍投手コーチ(1983 - 1985年)、オリックス一軍投手コーチ(1999 - 2000年)を務めた。

(中略)

戎信行は2000年春のキャンプで河村から「おれについてきたらタイトルをとらせてやる」と言われ、戎は「正直言って、それまでは人の意見はまったく聞きませんでした。信頼感というんでしょうか。ヨシ、この人についていこうと心に決めたんです」と述べている。

河村の言葉通り、最優秀防御率のタイトルを獲得した。戎は「周りのアドバイスを聞くことが、いかに大事か。いまの自分があるのも、それを教えてくれた河村さんのおかげです」 と述べている。

(中略)

ライオンズ、ホークス戦の中継解説も長年務めた。語り口は柔らかかったが、その辛口ぶりと厳しさは「仏の杉浦・鬼の河村」と言われ、多くのアナウンサーを困らせた。

アナウンサーがピントが合わない振りをすると黙り込む事も多かったほか、当時の平和台の放送ブースには「精神注入棒」なる孫の手のような棒が置いてあり、CMに入るとすぐにその棒で容赦なく鉄拳が飛んだ。

その「くだらない質問をした瞬間」机の下の足がアナの足を蹴ったというが、実況アナウンサーに「野球」というものをしっかり教え込みたかったとも言われ、中継終了後は若手アナを中洲で自身が経営する「MEET15」で奢り、野球講座を行う一面もあった。

(中略)

西鉄ライオンズ黄金時代に関する著書などを刊行したが、それらはいずれもゴーストライターを使わない純然たる自著であった。

神崎 安隆(かんざき やすたか)

広島県の盈進商業学校(現・盈進高等学校)で箱田淳の1学年下、土屋弘光と同期。同校卒業後、1951年、松竹ロビンスに入団。現役選手ながらブルペン捕手としての役割を果たし、同年に高卒ルーキーとして一軍戦出場を1試合経験していた。

1952615日の対読売ジャイアンツ戦(大阪スタヂアム)で、松竹打線は別所毅彦に92死まで一人の走者も出さない完全試合ペースで抑えられていた。

そこで監督の新田恭一から指名された神崎は片山博に代わる代打で登場し、カウント2ストライク3ボールから遊撃手前へゴロを転がした。神崎は一塁へ全力疾走し、平井三郎からの送球より一瞬早く一塁を駆け抜けて内野安打としてプロ入り初安打を記録すると共に、別所の完全試合を阻止した。

この安打が、神崎にとってプロ野球選手として最初で最後の安打だった。なお、18試合に出場した同年が、神崎にとって最も出場試合数が多いシーズンとなった。

1953年、合併により大洋松竹ロビンスに移籍したが、一軍での出番は無かった。

1954年、故郷の球団である広島カープに移籍し、2試合に出場したが、同年限りで引退した。

(中略)

後年、あるテレビ番組が上記の試合を取り上げた際、神崎は「自分はプロ野球選手としては成功できなかったが、あの内野安打がその後の人生を生きる自信となった」と述べた。別所はそれを見て、神崎があの試合を自分の人生のプラスにしていたことを知って嬉しく思ったという。

【<き>】

菊池 保則(きくち やすのり)

小学生の時は、ドッジボールの全国大会に出場。

常磐大高校では1年時からベンチ入りし、2006年秋季茨城県大会で準優勝し、関東大会に出場した。初戦で唐川侑己擁する成田高校と対戦し、相手打線を6安打に抑えるも味方打線の援護なく敗れセンバツ出場を逃した。

3年時にエース兼4番として活躍。夏の茨城県大会では準決勝の東洋大牛久高校戦では16奪三振で完封勝利を挙げる。しかし決勝戦で清原大貴擁する常総学院に敗戦、甲子園出場は叶わなかった。

2007103日、高校生ドラフトにて東北楽天ゴールデンイーグルスから4巡目指名を受け、入団。

(中略)

20181129日に福井優也とのトレードで広島東洋カープに移籍することが発表された。球団では同じ苗字の選手である菊池涼介が在籍していることから、報道上およびスコアボード上の表記は「菊池保」となる。

2019年は、シーズンを通して中継ぎとして一軍に帯同し、終盤にはセットアッパーにも起用された。チーム2番目の58試合に登板、防御率2.8015ホールドの成績を残した。

2021年は、926日の横浜DeNAベイスターズ戦では82アウトの場面で登板。タイラー・オースティンを初球でフライに抑えると直後の9回に味方が鈴木誠也の適時打などで逆転し、その裏を栗林良吏が抑えたことで、同月9日に塹江敦哉が記録して以来シーズン2人目の一球勝利を記録した。

(中略)

愛称は「キクヤス」、「タモツ」など。

最速149km/hのストレートと高速スライダーのコンビネーションを武器とし、投球回に迫る奪三振数を記録する。特にストレートは投手コーチの佐藤義則から「指にかかった時の球の強さは田中将大以上のものがある」と言われるほどである。

しかしコントロールに問題があり、制球が定まらない日は四死球を連発して自滅してしまうことがある。また、メンタル面の弱さを指摘されることもある。

広島移籍後からは新たにツーシームを投げることによってストライクゾーンを広く使えるようになり、持ち味であるストレートを生かせるようになった。

岸本 秀樹(きしもと ひでき)

高校の同期には赤松真人が、大学の同期には藤田一也がいる。

(中略)

2004年度ドラフト会議にて横浜ベイスターズから5巡目指名を受けて入団。

(中略)

2007年シーズンオフに小山田保裕との交換トレードで、木村昇吾とともに広島東洋カープへ移籍。

2008年は速球派の少ない中継ぎ事情もあり、積極的に起用される。54日の古巣・横浜戦ではプロ初勝利を挙げた。

安定感に欠け、敗戦処理中心で大きな信頼を勝ち取るには至らなかったものの、横浜3年間の通算24試合登板を上回る37試合に登板した。

2009年は一軍登板がなく、二軍でも防御率5点台と不調だった。

2010年は開幕一軍入りを果たしたものの4月に二軍降格となった。5月始めに再び一軍に登録され、終盤の9月に左膝痛で離脱するまで、リリーフ投手として自己最多の51試合に登板した。

2011年は抑え投手のデニス・サファテに繋ぐセットアッパーとして起用され42試合に登板。シーズン終盤に調子を崩し最終的には防御率4.17だったが、8月上旬までは防御率2点台と好調を維持し、WHIP1.26を記録した。好投の要因としてはフォークボールの制球が改善したことが挙げられている。

2012年も開幕一軍入りを果たし、13試合目の登板となった58日の対阪神戦の終了時点で防御率0.60を記録したように、シーズン序盤はまずまずの投球を披露した。

ところが、以後は一転して失点を重ねる場面が目立つようになり、交流戦終了後に二軍へ降格。以後は7月と9月に1試合ずつ登板するも、いずれの試合でも打ち込まれた。この年は27試合に登板するも、防御率は6.75WHIP1.71と大幅に悪化した。

2013年は4年ぶりに一軍公式戦での登板機会がなく、101日付で戦力外通告を受けた。通告を受けてから2度にわたって12球団合同トライアウトに参加したものの現役を引退。2014年からは広島のスコアラーに転身する。

(中略)

恵まれた体格から繰り出す平均球速約142km/h、最速153km/hのストレートを武器とし、変化球はスライダーとフォークを投げ分け、2010年からはツーシームも投げるようになった。

2009年には与四球率4.62を記録するなど四球が多い。

喜田 剛(きだ ごう)

大学通算9本塁打、ベストナイン捕手3回、打点王2回優秀選手、本塁打王各1回。父親は元大相撲力士。背筋200キロ超、握力70キロ。2001年のドラフト会議で、阪神タイガースが7巡目で指名し入団。

(中略)

2005年はウエスタン・リーグで打率.30321本塁打・55打点・長打率.631と活躍したが、一軍には定着できなかった。

2006年もウエスタン・リーグで打率.27814本塁打・56打点・8盗塁を記録し、本塁打・打点・安打・得点はリーグ最多を記録した。シーズン終盤には一軍でプロ初打点も挙げるが定着することができなかった。

千葉ロッテマリーンズと対戦した同年のファーム日本選手権では、桜井広大・藤原通とともに成瀬善久から三者連続本塁打を放った。

2007521日に山田真介との交換トレードで広島東洋カープへ移籍。背番号は44となった。

移籍後すぐに一軍へ上がり、522日の交流戦・対オリックス・バファローズ戦では7番・指名打者としてスタメン出場。広島での初打席をランス・カーターから安打で飾った。530日の対ロッテ戦(広島市民球場)では、清水直行からプロ初本塁打を放った。

一時は打率3割を超えて右翼手のレギュラーに定着するように見えたが、8月後半から約1か月に渡って安打が全く出ず、打率を下げてしまった。

阪神時代は5年間で8試合しか一軍出場がなかったが、この年だけで67試合に出場し、打率.2473本塁打を記録した。

2008年から登録名を姓と名の間を区切らない「喜田剛」に変更し、ユニフォームの背ネーム表記も「KIDA.GO」となった。

2010517日に長谷川昌幸と共に、迎祐一郎との交換トレードでオリックスへ移籍(登録名と背ネームは広島時代と同じ)。背番号は40となった。

(中略)

20101216日に寺原隼人・高宮和也との22の交換トレードで、山本省吾と共に横浜ベイスターズへ移籍、背番号は阪神時代以来の55、登録名は引き続き喜田剛となる。

横浜移籍後の2011年は一軍出場なしに終わり、同年109日に戦力外通告を受けた。122日に自由契約公示され、その後行われた12球団合同トライアウトを受験したが獲得球団が現れず、現役を引退。

2012年、四国アイランドリーグplusの徳島インディゴソックスの打撃コーチに就任したが、前期が終了した630日をもって「家庭の事情による本人からの申し出」を理由に辞任した。

徳島新聞によると、喜田は65日の練習の際に選手数人を「態度が悪い」として平手打ちで殴打、翌日に選手の親から球団に連絡があり、610日より謹慎の処分を受けた後に引責辞任したとされている。暴力を受けた選手の一人は615日付で退団した。

その後は妻から「1年以内に仕事が見つからなかったら離婚しましょう」と告げられ、業種を問わず就職活動を行った結果、スポーツ用品・アンダーアーマーの販売代理店である株式会社ドームに就職。現在はマーケティング部で野球全般の責任者を務める。

20201月からはYouTubeチャンネル「キダゴch」を開設し、YouTuber活動も開始。チャンネルでは柳田悠岐や今宮健太らアンダーアーマー契約選手に話を聞いたり、野球道具の紹介、バッティング理論の解説、現役時代の裏話など、週に3本のペースで野球に関する動画を投稿している。

ほか、YouTube以外にInstagramTwitterFacebookTikToknoteFOLLOW MEなど各種SNSを仕事で駆使している[12]

(中略)

阪神時代の2006年、二軍の対広島戦(広島市民球場)で、一塁を守る喜田に「キダー!キダー!」と呼ぶ声が。

声の主は当時広島一軍監督のマーティ・ブラウンであり、「『キダ、広島に来い』ってカタコトの日本語で僕を手招きしているんです。その時は、いったいこの人、何を言ってるんだろうと思いましたけど」と振り返っている。

翌年に広島移籍が決まり、ブラウンからは「楽しんでやりなさい。失敗しても切り替えてやれば大丈夫」と声を掛けられ、「阪神時代は毎日毎日怒られてばかり。4打数4安打を打っても怒られてましたから。このひと言で、すごく気持ちが楽になりました」と振り返っている。

木原 義隆(きはら よしたか)

大学卒業後の1965年に近鉄バファローズへ入団し、1年目の同年は20試合に先発、812敗で規定投球回(23位、防御率3.68)に到達。

その後はやや低迷し、1967年オフに金銭トレードで大洋ホエールズへ移籍。

2年間で通算15試合に登板するが01敗と不本意な結果に終わり、1969年暮れに金銭トレードで広島東洋カープへ移籍。

1971年は6月末から先発に喰い込み、2度の完封を記録するなど75敗。

1972年も先発として起用されるが、打線の援護に恵まれず3勝にとどまる。

5年間で12175セーブという成績を残すが、1974年オフに戦力外通告を受け、太平洋クラブライオンズに移籍。

1975年には4月下旬から先発陣の一角として起用され、自身初の2桁勝利となる109敗、防御率2.76(リーグ7位)の好成績を挙げた。

1976年は5月まで8試合に先発するが5連敗し、その後は先発を外れ06敗に終わり、同年限りで現役を引退。

木村 昇吾(きむら しょうご)

2002年度NPBドラフト会議にて横浜ベイスターズから11巡目指名を受け、契約金2,000万円、年俸600万円(金額は推定)という条件で入団。背番号は66。ちなみに、この会議の前に他球団から指名の約束があったとされているが、実際には横浜が単独で指名しただけであった。

(中略)

2007年シーズン終了後に小山田保裕との12の交換トレードで岸本秀樹と共に広島東洋カープへ移籍。

(中略)

200956日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で監督のマーティ・ブラウンが公式戦では3年ぶり3度目の5人内野シフトを敷いた時に右翼手の天谷宗一郎に代わって出場。外野へは行かず三塁手と遊撃手の間で守備に就いたが、打者荒木雅博が三振し、守備機会はなかった。

この年はスタメン出場はなかったが、2年連続リーグトップの代走起用39回を記録。内野守備固め44回、外野守備固め14回と試合終盤の守備を任されるスペシャリストとして重要な働きをした。

2010年シーズン序盤はもっぱら二軍で調整。しかし東出輝裕が負傷で戦線を離脱したことを機に再び一軍へ定着した。821日の対横浜戦で久々の先発出場。守備・走塁だけでなくバットを寝かせた新フォームで打撃面でも好調を維持し、以後シーズン終了まで2番・二塁手としてスタメンに定着した。

打席数は164と少なかったものの打率.324、自己最多の10二塁打、5三塁打を記録。守備要員から脱却する飛躍のシーズンになった。特に古巣の横浜相手には918日の試合で自身初の1試合5安打を記録するなど対戦打率.593と強さを発揮した。

(中略)

2015年シーズンは対右投手のスタメン、三塁や一塁などの守備固め、代走、代打として一軍公式戦72試合に出場。打席数は前年253打席から半分以下の109打席にとどまったが打率.269を記録。

「(NPB)他球団の話を聞いてみたい」という理由で1110日に、海外FAの行使を表明。NPBから海外FA宣言選手として公示されたが公示から1か月以上経っても移籍先が決まらなかった。

FA宣言しながら所属球団無しとなる恐れがあったことから、ネット上では「セルフ戦力外」とも言われた。

20151225日、埼玉西武ライオンズから2016年シーズンの春季キャンプにテスト生として参加することが発表された。FA権の行使を宣言した選手が、他球団の入団テストを受けるのは、NPB史上初めての事例であった。

(中略)

2016年シーズンはオープン戦8試合に出場したが、打率が.11817打数2安打)と低迷したことから、移籍後の一軍公式戦初出場は423日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(西武プリンスドーム)まで持ち越された。

以降は一軍公式戦38試合の出場で打率.2215打点、3盗塁という成績を残していたが、622日の練習中に右膝を傷めた。後の診察で、右膝前十字靱帯の断裂が判明。ランニングの再開まで3か月を要することが見込まれたため、101日に戦力外を球団から通告された。

木村自身はNPB他球団での現役続行を希望していたが、通告を受けた時点でランニングの再開に至っていなかったため、1112日の12球団合同トライアウト(甲子園)には参加しなかった。

結局、1118日に育成選手として西武と再契約。前述の故障が回復した時点で支配下登録選手へ復帰することを視野に入れた契約で、背番号も121へ変更。

(中略)

2017年シーズンはチーム唯一の育成選手として、春季キャンプをB班(二軍)で迎えた。レギュラーシーズンの開幕後は、イースタン・リーグ公式戦37試合の出場で打率.211 1本塁打 4打点を記録。68日に支配下登録選手へ復帰するとともに背番号も0に戻った。

同時に出場選手登録も果たしたことから、当日にはメットライフドームの対巨人戦で「9番・三塁手」としてスタメンに起用されたが、育成選手時代に着用した背番号121のユニフォームを着用していた。

球団が木村の支配下再登録と並行して出場選手登録をNPBに申請した関係で、背番号0のユニフォームを手配できなかったことによる特例であったが、5回裏の第3打席にはシーズン初安打を放った。

しかし、一軍公式戦には3試合に出場しただけで、前述した安打を最後にシーズンを終えた。106日には、前年に続いて球団から戦力外通告。122日付で、NPBから自由契約選手として公示された。

西武から戦力外通告を受けた直後は、NPB他球団での現役続行を希望していた。20171115日には、前年(2016年)に参加を見送った12球団合同トライアウト(マツダスタジアム)に初めて挑戦。シートバッティング方式の対戦で、4人の投手を相手に、4打数1安打(二塁打)という結果を残した。

他球団から獲得のオファーを受けるまでには至らなかったが、クリケット関係者から身体能力の高さを評価されたことを機に、クリケットへの転向を決意。クリケットの本場・インドのトップリーグへ参戦することを目標に、201711月末からトレーニングを始めた。プロ野球選手がクリケット選手に転向した事例は、木村が世界で初めてとされる。

木村 拓也(きむら たくや)

高校時代は捕手を務め、宮崎県立宮崎南高等学校では1年夏の甲子園(70回大会)で1勝、3年春には5打席連続三塁打、高校通算35本塁打の記録を持つ。遠投120メートルの強肩捕手として鳴らしていた。

(中略)

1990年オフ、捕手としてドラフト外で日本ハムファイターズに入団。しかし、開幕時の支配下登録の当時の60人枠から漏れ、一度は任意引退選手扱いとなったことがあった。本職の捕手としての出場機会に恵まれなかったことから、他のポジションを探し、1992年に俊足と強肩を買われて外野手に転向。

(中略)

1994年オフに長冨浩志投手との交換トレードで広島東洋カープに移籍。正田耕三の後釜候補として二塁手に就き、以後内野の守備も兼ねるようになる。

1996年オフにスイッチヒッター転向に取り組み、1997年よりスイッチヒッターデビューした。同年秋季キャンプから故障がちな野村謙二郎の控えとして遊撃手に挑戦。これが大きな転機となる。

1998年、公式戦で遊撃手として守ったほかに代打の切り札として活躍、盗塁も14個記録してスーパーサブとしての役割を果たした。

1999年には一時捕手への再転向案が浮上し、公式戦でも4試合捕手を守った。この頃よりユーティリティープレイヤーとなり、この年だけで投手・一塁手以外の全ポジションを守っている。

同年は広島市民球場のバックスクリーンにプロ初本塁打を放つなどバッティングも向上し、2000年には一番打者として初の規定打席に到達しただけでなく、打率288厘、10本塁打、30打点、165安打の好成績を残すなど10年目にしてブレイクした。以降は3年連続して130試合出場するなど、チームにとって欠かせない存在となる。

(中略)

2004年にはアテネオリンピック野球日本代表に選出(詳細は後述)。

109日の対横浜28回戦では三浦大輔の前に三重殺(記録はセンターフライ)を喫している。このシーズン以降は若手選手の急成長に加え、足や腰を故障するなどして、打撃や走塁で満足なプレーを残せず、スタメン出場の機会は著しく減少。シーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症し、手術を受けた。

2005年は打順は一定しないもののほぼ二塁・遊撃を守る。レギュラーに定着しかけていたが腰痛を発症し、8月上旬に離脱した。1ヶ月後復帰したが、以後はスタメン起用は大幅に減った。

2006年シーズン、新任のマーティ・ブラウン監督の若手起用の方針により開幕二軍スタートとなり、全く一軍での起用がなく、シーズン途中ではあったが本人の希望もあって65日に山田真介外野手との交換トレードで巨人へ移籍。

広島OBの江夏豊は「広島は大きな損失をした」と木村の移籍を惜しんだ。なお、広島時代の応援歌「足の速さは 誰にも負けない 風を切り走れ 木村拓也」のフレーズは、2007年シーズン後に広島に移籍してきた同姓の木村昇吾(2015年退団)に引き継がれた。

(中略)

2010421740分頃、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島での対広島東洋カープ1回戦の試合前、本塁付近でシートノック中に突如として意識を喪失しそのまま倒れ込んだ。直ちにその場で関係者や両チームの選手、救急隊によってAEDで蘇生処置を受けた後、広島大学病院に緊急搬送された。

医師による検査などの結果、クモ膜下出血と診断され、そのまま緊急入院して治療を受けていたが、意識不明の重体から容態は改善することのないまま、その五日後の47322分に入院先の病院で息を引き取った。37歳没。38歳の誕生日のわずか8日前だった。なお、清武英利球団代表は同日の記者会見で「搬送された時点で、すでにレベル5[ 1]の最悪の状態だった」と状況を語った。

目立った前兆は無かったが、広島入り直前に関係者に対して「ひどい頭痛に見舞われて、2時間ぐらいしか眠れなかった」「食べる量は変わらないのに痩せた」と話していたという。

生死をさまよう中、巨人の選手は木村の背番号「84」をつけて、巨人ファンは現役時代の応援歌を、広島ファンも広島在籍時の応援歌をそれぞれ熱唱し、「ガンバレ、ガンバレ、拓也」とエールを送り、復帰を祈っていた。

(中略)

シーズン打率3割もゴールデングラブ賞も獲得していないが、「俊足・強肩・巧打」と、攻守ともに優れたユーティリティープレイヤーとして重宝された選手だった。2006年の代打成功率は4割を超え、かつて「代打の神様」と呼ばれた八木裕は「代打で結果を残すスイッチヒッターは怖い」と絶賛した。

ユーティリティプレイヤーになっていく過程は、ドラフト外でのプロ入りから始まり、球団から目をかけてもらえない日々が続いたことで「チームで空いているポジションを探して、そこに入ろうとした」結果である。

ドラフト外のプロ入りについて「今で言う育成選手ですよ」というコメントをしており、「後に続く人たち(育成選手を含む若手)の目標になりたい」と語っていた。

(中略)

現役最晩年に最も活躍し、メディアでも注目を浴びた非常に珍しい選手である。また、他球団の主力選手で巨人に移籍した選手は結果を残せぬまま退団する選手も多かったなか、巨人移籍後も攻守にわたって重宝され、原巨人のリーグ3連覇に大きく貢献した。

引退後すぐに巨人のコーチ就任を打診されるなど、他球団出身の選手としては異例の待遇を受けた。原は2012年のリーグ優勝後、「ようやく拓也にいい報告が出来る」と振り返った。

(中略)

アテネオリンピックでの野球日本代表は各チームから2名以内の選出という申し合わせ事項があり、広島からエースの黒田博樹と共に選出された選手は、当時連日スタメンに名を連ねていた前田智徳や新井貴浩ではなく、グレッグ・ラロッカや緒方孝市と交代でセカンドやセンターで出場する機会の多かった木村だった。

オリンピックの野球競技(を含めた野球の国際大会)では、ベンチ入り可能な選手人数が非常に少ないため、複数のポジションをこなせる選手は重宝された。アテネオリンピックの公式記録集では日本代表で唯一、ユーティリティープレーヤーである「U」の表記となっている。

試合出場は予選リーグの対ギリシャ戦(8回から谷佳知との交代でレフトを守る)と、3位決定戦となった対カナダ戦(8番レフトでフル出場)の2試合にとどまったが、試合での攻守のみならず、雑用係やブルペンキャッチャーとしても活躍し、長嶋茂雄からは「率先して裏方の仕事を手伝い、銅メダルに貢献してくれた」と称えられた。

木村 勉(きむら つとむ)

1939年に南海軍に投手として入団するが、この年は僅か3試合の出場に留まる。尚、この年は鶴岡一人や岡村俊昭といった、後にコーチや監督として南海黄金期を支える人物も入団している。

2年目から外野手に転向すると出場が増加し始め、3年目の1941年には今度は捕手に転向。そこでレギュラーとなるが、その年末に応召。

戦後の1946年に南海改め近畿グレートリングに復帰するも、1年で解雇。

1947年に国民リーグの唐崎クラウンに数少ないプロ野球経験者として入団。そこで活躍するも他の3チームと比べると如何せん「野球経験者の少なさ」が影響してしまい、チームは夏季・秋季リーグ共に最下位で終わる。

(中略)

1952年に大洋、翌年には広島と1年ずつ籍を置いた後、1954年に近鉄パールスに移籍。木村自身長打力は無かったものの、近鉄では当時「ピストル打線」と呼ばれた打線の中軸を小玉明利や武智修、日下隆等と共に任される事があった。

195692日対東映戦では東映のエース・米川泰夫から日本プロ野球史上初となる初回先頭打者ランニングホームランを記録(これが木村の現役生活最後の本塁打でもある)1958年に引退。

(中略)

戦後は主に外野手のリードオフマンとして活躍。また、俊足で1954年には38盗塁を記録している。また三振も少なく、1954(464打数)に記録した29個が最高。通算4000打数以上で通算202三振は現時点で歴代最小三振数である。

一方で前述の通り長打力は無く、通算本塁打数9本は打数4000以上の選手の中では2009年に赤星憲広(3)に更新されるまで51年間歴代最少数だった。

また、プロ入り初本塁打を記録するのに掛かった1422打席(1950416日の国鉄戦)も、村松有人に1556打席(1998412日の近鉄戦)に更新されるまで48年間NPB最遅記録であった。

【<く>】

国貞 泰汎(くにさだ やすひろ)

早くから目を付けた同校先輩の柚木進一軍投手コーチが交渉し、1962年に南海ホークスへ入団。

ニックネームのゴリは、容貌もさることながら、打席に入る時に両肩を揺すって歩くことが由来で、名付け親は岡本伊三美二軍監督とされる。

鶴岡一人監督は「ゴリ、ゴリ」と目をかけ、少々夜遊びが過ぎた国貞には「飲み屋に通っても銭を使うばっかりや。グラウンドにはいっぱい銭が落ちとるで!」との名文句でハッパをかけた。

鶴岡に怒鳴られ叱られながら、3年目の1964年には6月からジョニー・ローガンに代わって二塁手のレギュラーに定着して3年ぶりのリーグ優勝に貢献。

同年の阪神との日本シリーズでも、105日の第4戦(大阪)で村山実から2安打2打点、同9日の第6戦(甲子園)ではジーン・バッキーから先制2点二塁打を放ち、5年ぶりの日本一に大きく寄与した。

(中略)

1969年オフに監督が野村克也に代わると、富田勝の台頭もあって鶴岡派であった国貞は放出方針となる。国貞自身の「地元の広島カープに帰ってプレーをしたい」との願望もあり、野村が獲得を希望した古葉竹識に加え、城野勝博・寺岡孝との交換トレードで故郷・広島東洋カープへ移籍。

ガッツ溢れるプレーでチームを牽引し、1971年にはリーグ9位の打率.274を残したほか、セ・リーグのベストナイン(二塁手)も獲得。1972年には面白いように安打を放ち、最終的には打率3割を切ったが、自己最高の打率.293をマークしてリーグ5位に喰い込む。

背を丸め尻を突出し、独特のしゃがみ込み打法でバットを短く持ち、ボールに食らいついてしぶとく右翼方向に流すバッティングは職人芸と言われた。

性格的にもひょうきんで面白く楽しいネアカキャラで人気があり、国貞は「ワシがカープのおとなしいカラーを変えてやる」と若い連中の山本浩二、衣笠祥雄、水沼四郎らに刺激を与えた。選手会の納会でゴリラの歩く真似をして笑わせていた。

試合の無い日などは、当時住んでいた安佐郡高陽町(現・広島市安佐北区高陽町)の自宅に、仲の良かった山本や水沼らチームメイトを招いた。裏山の麓に畑があり、大きな柿の木が一本あった。国貞曰く「あの木にワシの兄弟(猿)が来ては、ワシを呼ぶんじゃよ」と面白おかしく話した。

現役時代は、ピラニア飼育という異色の趣味を持っていたことでも有名になった。

(中略)

1974年オフに日本ハムから大下剛史が入団したこともあり、国貞は自由契約となる。

まず、太平洋クラブライオンズから「管理野球に反旗を翻すサムライ野球をやりたい。それにはあんたが必要だ」と言われてオファーを受けた。その後、太平洋から長い間連絡がないうちに、今度は阪神タイガースの吉田義男監督から連絡を受け、話がまとまりかける。

しかし、国貞は太平洋から勧誘を受けているとの情報が阪神側に入り、長田陸夫球団社長が「両天秤かける男に用はない」として、阪神移籍の話はつぶれてしまった。

たまりかねた国貞は太平洋に移籍の話がどうなっているのか直談判すると、太平洋側からは国貞の年俸500万円が高すぎるとして、島原キャンプにテスト生として参加するよう要請を受ける。

江藤慎一新選手兼任監督は「クビになってはじめて、みんな後悔する」と、一度は自分も実業家を目指してユニホームを脱いだ経験から、国貞の後悔ぶりを目につけた。

江藤は「まとめて面倒を見るか」と、ヤクルトを自由契約になった東条文博にも声をかけ、国貞と登場は「チャンスを与えられた俺たちは、ほんのひと握りの幸せものさ」と二人で口を揃えた。

東条は不合格に終わり、国貞はテストに合格するが、年俸は25%減の375万円とし、75試合、打率.250等の条件で出来高ボーナス200万円の契約となった。

なお、この年のオフには、国貞のほか木原義隆・西沢正次・松林茂が広島から太平洋に移籍している。

1975年新天地でもレギュラー入りを果たして前期は54試合に出場。しかし、後期は出場機会が減り、824日の阪急戦(西宮)で代打に起用されながら犠飛も打てなかったことから力の限界を悟り、同年限りで現役を引退。

同年に悲願の初優勝を果たした広島にいられなかった事が最大の心残りと言っており、西沢と共に「初優勝のときに広島にいたかった」という談話がスポーツ新聞に載った。

黒木 宗行(くろき むねゆき)

宮崎商業から宮崎鉄道局を経て1949年に大陽ロビンスへ入団。

1950年に広島カープへ移籍。同年退団。

【<け>】

(該当選手0人)

【<こ>】


児玉 好弘(こだま よしひろ)

高校卒業後は、社会人野球の日本軽金属で活躍。

1965年のプロ野球ドラフト会議で、東京オリオンズから15位指名を受けたが、これを拒否し残留。エースとして1969年の第40回都市対抗野球大会へ18年ぶりの出場を果たす。1回戦で優勝候補の日本生命と対決、延長10回の熱戦の末、1-3で敗れた。

その後、1970年オフにドラフト外で阪急ブレーブスへ入団。

翌春のオープン戦から活躍を見せ、主に中継ぎとしてルーキー・イヤーの1971年に6勝、翌1972年には自身シーズン最多となる10勝を挙げリーグ連続優勝に貢献。読売ジャイアンツとの1972年の日本シリーズでは3試合に登板、第2戦では同点の8回裏からリリーフに立つが、堀内恒夫に勝ち越し二塁打を喫し敗戦投手となっている。

その後、1974年オフに白石静生・大石弥太郎両投手との交換トレードで宮本幸信・渡辺弘基と共に広島東洋カープへ移籍したが、カープでは殆んど出番が無かった。

1976年には金銭トレードで太平洋クラブライオンズへ移るも、3試合のみの登板に終わり、この年暮れに引退した。

小鶴 誠(こづる まこと)

1942年名古屋軍に入団。

戦後の1948年に急映に移籍すると、新田恭一の指導で腰の回転を利用したゴルフスイング打法を習得し、翌1949年に打率.361で首位打者を獲得。翌1950年セ・パ両リーグ分立に伴って松竹へ移籍すると、水爆打線の中核として51本塁打、161打点の二冠王で最優秀選手を獲得するなど、同年の松竹の優勝に貢献した。

なお、同年の161打点、376塁打、143得点は日本プロ野球記録。

1953年に広島へ移籍し、1958年に引退。引退後は国鉄・阪神などでコーチを務めた。1980年に野球殿堂入り。美しい打撃フォームで、風貌もジョー・ディマジオに似ていたことから和製ディマジオと呼ばれた。

(中略)

1953年に松竹が大洋と合併した際に、金山次郎・三村勲ら赤嶺一派のメンバーとともに広島カープへ移籍。石本秀一監督と樽募金で資金を集めた広島市民の熱意により移籍が実現し、球界の大スター入団に広島の町は沸き返った。

往年の力は発揮出来なかったが、この年は自己最多の33盗塁を記録するなど奮闘し、ファンも意気に応えて人気投票1位でオールスターゲームに送り出した。

打撃力の乏しい広島では不動の四番に座り、1954年(.2979位〕)、1955年(.2856位〕)と2年連続で打撃ベストテンに顔を出した。

(中略)

1958年に現役引退したが、同年のシーズンオフに「チーム若返り策」の名目で戦力外を告げられた。

その時、小鶴は球団代表の河口豪に対して、「(自分より)実力の劣る選手がいるのに何故自分なのか。まだまだ現役でやれる自信がある」「この球団は広島閥が強すぎる」「引退を勧めるならば、コーチ就任の話ぐらいあってもいいのでは」と不満をぶつけている。

それに対して河口は「君は性格的にコーチは向いていないだろう。それに現役時代より給料は格段に落ちる。ならば勇退とした方がすっきりとするのではないか」と説得し、小鶴も受け入れた。

後に河口は、球団幹部だった松田恒次から「小鶴に引退してもらったのは白石監督をやりやすくするためだ」と聞かされたという。

その後、白石率いるカープは1960年に球団初の勝率5割を達成したが、白石から門前真佐人が監督を引き継いだ1961年~1962年にチーム成績は低迷し、観客動員数も落ち込んでしまう。

危機感を抱いた球団社長の伊藤信之は小鶴を監督として招聘しようとするが、球団役員の意志統一が図れず、伊藤は辞任してしまう。

代わって球団社長に就任した松田恒次は白石を監督として再招聘したため、小鶴がカープに復帰する機会は永遠に失われてしまった。

小早川 幸二(こばやかわ こうじ)

1988年オフにドラフト外で福岡ダイエーホークスに入団。

しかし、一軍出場がないまま1990年オフに広橋公寿との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。

しかし、ここでも一軍出場がないまま1992年オフに松井隆昌との交換トレードで広島東洋カープに移籍。

広島では、清川栄治の放出と石貫宏臣の故障により手薄となっていた左のリリーフとして活躍し、1996年には46試合に登板した。

しかし、同年の終盤に起きたアキレス腱断裂がたたり、その後は成績が低迷。1998年は一軍出場が無く、同年オフに自由契約となり退団。

1999年、台湾に渡り台湾大聯盟の台中金剛に入団するも、左肘の故障もあり1試合のみの登板で解雇され、同年限りで引退。

小前 博文(こまえ ひろふみ)

法政大学を経て1946年にゴールドスターに入団。

48年~49年に阪急ブレーブス、50年に広島カープでプレーし、その年限りで引退した。

【所感】

喜田剛と木村昇吾がSNSをフル活用してる!

2人ともYouTubeを筆頭に各種SNSで発信していたので、なんとなく眺めていたら、あっという間に時間が過ぎてしまった(汗)

そのため、所感欄は簡潔にまとめることになりそうだ。
文句は2人に言ってくれ。

(責任転嫁)

コホン。

プロ野球選手出身の人が情報発信をしていて、(人気ユーチューバーと比べて)再生数がそれほど伸びていないのを見ると、いかに情報過多の社会なのか、考えさせられるね~。

阪神時代の2006年、二軍の対広島戦(広島市民球場)で、一塁を守る喜田に「キダー!キダー!」と呼ぶ声が。

声の主は当時広島一軍監督のマーティ・ブラウンであり、「『キダ、広島に来い』ってカタコトの日本語で僕を手招きしているんです。その時は、いったいこの人、何を言ってるんだろうと思いましたけど」と振り返っている。

喜田剛のことをブラウン監督が高く買っていたという話を聞けて良かったです(^^)

木村勉は「元祖・東出輝裕」!?

俊足で1954年には38盗塁を記録している。

また三振も少なく、1954(464打数)に記録した29個が最高。
通算4000打数以上で通算202三振は現時点で歴代最小三振数である。

一方で前述の通り長打力は無く、通算本塁打数9本は打数4000以上の選手の中では2009年に赤星憲広(3)に更新されるまで51年間歴代最少数だった。

また、プロ入り初本塁打を記録するのに掛かった1422打席(1950416日の国鉄戦)も、村松有人に1556打席(1998412日の近鉄戦)に更新されるまで48年間NPB最遅記録であった。

・OPS   :<通算>.638
・俊足    :<通算>171盗塁|93盗塁死
・三振の少なさ:<通算>4233打数|202三振
・長打力の無さ:<通算>4233打数|9本塁打
           (122二塁打・39三塁打)

ココで我らがカープ東出輝裕コーチと見比べてみよう!
分かりやすいように、項目は同じで。

・OPS   :<通算>.627
・俊足    :<通算>143盗塁|81盗塁死
・三振の少なさ:<通算>5094打数|659三振
・長打力の無さ:<通算>5094打数|12本塁打
           (144二塁打|30三塁打)

(参考)

※2021年シーズンの平均OPS
 セリーグ:.698|パリーグ:.683

う~ん、これはお二人とも、アヘ単率が高そうンゴねえ・・・。

(大学生の頃に、なんJを少々、かじっておりました・・・)

アヘ単は蔑称に分類されると思うけど、愛情を込めて「まったく〇〇選手はアヘ単だなあ~」って呼んでる人も多い気が、僕はしている()

小鶴誠は「元祖・秋山翔吾」!?

1953年に松竹が大洋と合併した際に、金山次郎・三村勲ら赤嶺一派のメンバーとともに広島カープへ移籍。

石本秀一監督と樽募金で資金を集めた広島市民の熱意により移籍が実現し、球界の大スター入団に広島の町は沸き返った。

往年の力は発揮出来なかったが、この年は自己最多の33盗塁を記録するなど奮闘し、ファンも意気に応えて人気投票1位でオールスターゲームに送り出した。

小鶴誠さんって「通算記録の話になると良く出て来る人」って印象しかなかったんだけど、まさか、カープのユニフォームに袖を通していた時代があったなんて!!!

「秋山カープ移籍」

この報を受けて、数多のカープファンは、思考停止、のち、狂喜乱舞に沸いたことが容易に想像されるが、当時も、そんな感じだったのかなあ?

いや、樽募金で資金を集めた末に獲得出来たらしいから、秋山以上の喜びだったかもしれない・・・。

当時を知るカープファンの知り合いが居ないので分からない・・・。

こういう時に「関西生まれ関西育ちのカープファン」の辛さがある()


【P.S.】

「所感」の欄を、少しイジってみた。

「まとめ記事」の体裁を保つために、第1回は、なるべく「カッチリ」を意識して記事を書いたのだが、ちょっと、機械的過ぎた(自己評価)。

とはいえ、好き勝手まとめては本末転倒なので、データ通りに記載するところは記載して、僕らしさを出せそうなところで、サクッと書いてみた。

前述した通り、喜田剛と木村昇吾のSNS閲覧で、手短に済ませてしまった感は否めないのだが・・・。

これは今後の反省として、活かしていきます()

時間以降は、もうちょっと、所感欄で「遊び」を出せたらいいかな。

じゃ、今回はこの辺で~(^^)/

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