愉快ジン#20

この日は外をランニングしていた。イヤホンから流れる音楽をシャフル設定にする。すると一曲目からイメージと違う曲が流れる。次の曲へスキップする。しかし、次もなかなか気分を上げてくれる曲ではない。一度立ち止まってスマホを取り出すと気分に合った曲を選択する。こういう時は青春群像ドラマで使われていた曲が1番いい。それならシャッフルなんてしなければいいのだが。
 すると、目の前を阻むように1人の女性が現れる。そして「久しぶり」と一言。僕は顔を見なくても瞬時に誰かわかった。特徴のあるハスキー声だ。視線を上げるとやっぱり。半年前まで一緒に働いていた同い年の子だ。咄嗟に乱れた髪を手ぐしで整えると息を整えるように深呼吸。汗を拭き取り冷静さを保つ。ん?よく見ると小さな男の子を抱えている。そうだった。退社したのではない。育児休暇だ。半年前まで一緒に働いていたというのにかなり時間が経ったように感じた。口の悪い人は苦手なのに、この子のサッパリとした性格と毒舌がなぜか心地が良かった。ある意味僕の抱えている毒を代弁してくれるような気がしていたのかもしれない。と、ここで赤ちゃんが小さなまん丸目玉でこっちを見てくる。よく「ヘビ顔」と呼ばれるお母さんとは違って、ほっぺたがぷっくらしているこの子は誰に似たのかな。本当に親子なのかな。まさか腹違い、、?なんてことを考えていると、頭の中を覗き込かれたかのように「誰にも似てないんよ」と言われてしまった。その言葉でなんだが困惑してしまった僕は咄嗟にムチムチした赤ちゃんの「ちぎりパン」と呼ばれる腕を触る。するとキャキャと笑い出した。「なんて可愛いのだろう。こんな可愛い人間がこの世にいたなんて。自分にもこんな可愛い頃があったのだろうか。あったとしたら。母よ、いまこんな生意気になってしまって申し訳ない」
 こうして頭の中で1人キャッチボールをしていると、赤ちゃんに人差し指を掴まれた。ひんやりとした手をまるでホッカイロのように温めてくれる。ますます赤ちゃんが愛おしく感じた。いや、それにしても握りが強くないか?生後半年の握力ではない。なかなか指を離してくれない。
 力づくで離すわけにはいけないと思った僕は自然に離してくれることを待つことにした。しかし全く離す雰囲気がない。ここで友達が歩き始める。すると、僕も指をひっぱられて歩く。なんだが外から見るとお母さんの抱っこした赤ちゃんにひっぱられる大男みたいになっていてとても奇妙な光景だ。それに間接的に友達と手を繋いで歩いているようで小っ恥ずかしさもあった。
 しばらく歩くと急に立ち止まった。そして目の前にあるベンチに腰掛ける。僕もつられるように座った。
「来年の4月になったら復帰するからよろしくね。」
その言葉がなんだか嬉しかった。最近職場のスタッフが入れ替わってなんだがギクシャクしていたからだ。気の強い友達が戻ってきたらどれだけ心強いだろうか。
「4月かー。また働けるの楽しみにしてるね」
僕のその言葉を聞いて彼女の表情がなんだかにやけた気がした。
そしてしばらく雑談を続けた。すると赤ちゃんは僕の指をすっと離した。すやすや眠っている。こうしてその場はお開きとなった。
 実を言うと僕は4月で職場を辞めるつもりだ。だから4月に復帰しても僕がいるのかはわからない。今のうちに彼女が戻りやすい環境を作っておこうと思う。
 こうして擬似パパ体験をした僕は帰り際もう一度スマホを開いた。あ、ようやく今の気分に合った曲がわかった。こうしてイヤホンに流れている青春群像ドラマ曲からアットホーム曲に変更したのだった。

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