2022年10月のメモ②

幼い頃に尊厳を奪われ続けた人は、それから先ずっと自分の人生に意味があると思える状態を渇望しながら生きるハメになる。その究極の形が動機のよくわからない通り魔殺人だったりするのだろう。人生を肯定する方法が本当に他に何もないのならそれをするしかないし、当たり前に自分を肯定できている人間には、まず感覚的に理解できないだろう。

意味に囚われた人間は、意味を見出だせないと何もできない。飯を食うことすら意味が必要で、それでも身体は無意味に生を欲しているので、その矛盾に苦しみながら、常に虚しさを抱えながら生きることになる。虚しさとは要するに「やりたくないことをやらされる徒労感」である。それが意識のある間ずっと続くことになる。

徒労感を和らげる何かがある間はそれにすがっていればいいが、それを誰かに「奪われた」と感じた時が大変だ。死ぬことだけが唯一の希望になったり、「社会の奴らは全員敵だ」という風になったりする。この辺のことは黒子のバスケ事件の犯人の人が浮遊霊だとか生霊だとかいう言葉を使って上手く説明していた。

人を殺す人も、自分を殺す人も、大抵は自分の全存在をかけるような凄まじい覚悟を持ってそれに臨む。もうそれは良いとか悪いとかいう次元の話じゃない。殺人者の独白や自殺した人のブログを読んだりしていると、当事者にとっては不謹慎かもしれないが、青春という言葉がぴったりだと感じることがある。あるいは母の子宮から脱出する胎児も、同じ気持ちかもしれない。

殺人や自殺を肯定したいわけではなく、人間は条件次第でそうなるということを言いたい。これは戦争と同じだ。


思考停止を軽蔑している人には考えすぎの害を理解し難い。逆もまた然り。


願いは傷から生えてくる。願いを叶えて一時的に満足しても、原因の傷が癒えるわけじゃないので、また同じような願いが生えてきて、いつまでも終わりがない。叶えられていない願いがあることはつまり、人生の中に不満足が居座っており、それはしばしば生活上の問題へと発展する。つまり、玉ねぎの皮を剥くように同じ問題が形を変えて何度も現れる。青井硝子さんはこのことを「何度も追試を受けさせられる」と表現していた。


学校に行ったからといって社会性が身につくとは限らない。学校のルールと社会のルールの間にはかなりの乖離があると思う。


僕の小規模な生活とかコスメティック田中みたいな陰キャ自虐系の人見ると落ち着く。なんというか、こういう態度でなら生きていけそうって思う。社会との距離感がわかるというか。中学生の頃神聖かまってちゃんを見て同じことを思ったような気がする。何一つちゃんとするために頑張ってない感じがいい。
自虐というのは、ありのままの自分を受け入れて認めるということを、卑屈な方法でやっているのだと思う。ショボくてキモい自分でも、とりあえずは生きていかなくてはならないのだから。
ただ、そういう態度を他人に対してやると鬱陶しがられる。まあ、自己肯定が他者から見ると甘えのように見えるのは、陰でも陽でも同じだろう。


恋人か友達かなんてどうだっていい。恋愛感情なんてMDMAでもやれば誰でも味わえる。でも、その人が自分の人生にとって大切な存在だという物語性は、他の誰にも埋め合わせできないんだよ。


自分がリベラルな思想に惹かれるのは、社会の不自由すぎる考え方によって実際に被害を被ってきたからだと思う。自分の持つ多動性や自閉症的な傾向はクラスの同調を乱し、人権侵害のような扱いを受けるに至った。クラスの同調に柔軟性がなく、異端を受け入れる余地がなかったからだ。大人たちの間に不自由な考え方が浸透しているので、その影響を受けて子どもの思考が硬直する。
例えば、大麻解禁運動をする人に対して「でもどうせ自分が吸いたいだけでしょ」という批判がある。それに対して俺は、「大麻も吸えない世の中だからみんなストレスが溜まって地獄になるんだよ」と考える。でも最初の批判をしてきた人は多分「自由な振る舞いが許される世の中になったら犯罪が増えて地獄になる」と考えていて、この不安は自分の持つ不安と根源は同じであると思う。


ここ数ヶ月の間で、自分はかなりの依存体質なのだということをようやく自覚できた。だから、友達が欲しい。たくさん欲しい。依存先を分けたい。少数の大切な人間関係だけに引きこもっていると、失うことが怖すぎて、苦しくて潰れてしまう。苦しくて潰れると、また人との関わりを避けて自分一人の世界に閉じこもるしかなくなる。それは寂しいから嫌だ。私は他者との関係を望んでいます。できれば陽気でチャラチャラした人間になりたい。まあでもそれは無理があるか。せめて気兼ねなく人と話したい。コミュ障治したい。楽に生きたい。


きっとあちら側から見たらこんな俺でも幸せな人間のように見えるだろう。でも、不幸せと孤独がセットであるように、幸せには憂鬱が絶えず付き纏う。いつまで経っても終わりがない。隣の芝は青い。存在の不安。


幸せに生きる権利があるなんて考えてはいけない。権利を奪った相手に対して死ぬまで固執する羽目になる。どれほど恨み言を言っても失ったものはもう戻らない。俺は手負いの野生動物として強く生きていくんだ。


イラッとしたり嫌な気持ちになる時は相手の文脈に乗ってしまっている。乗る必要があるかどうか考える前に、もう反射的にそうなってしまっている。確固たる自分の軸がないからそうなるのだろう。常にぶれないマインドを持って生きることは難しいが、せめて軸をぶらされていることに自覚的でありたい。


自己肯定感なんて本来はあるのが当たり前だってこと、みんな忘れてない?


「子供と対等に話す大人」が美談のように語られることがあるが、実際は子供を子供扱いして上手に機嫌を取れる人の方が偉いに決まっている。


キャッチャー・イン・ザ・ライとはつまりあれはダメこれもダメと口うるさく言う大人のことだ。そのことをホールデンは分かってない。


自分の人生に何か一貫した哲学があるとしたら「気持ちよくなりたい」くらいしかないな。


ノスタルジーは、思い出補正によってまるで自分の人生に価値があったかのような錯覚を与えてくれる。あんなに居心地が悪くて仕方なかった学校にある種の懐かしさを覚えてるのおかしいでしょ。数々のトラウマの現場となった故郷に対して薄っすら郷土愛らしき感情があるの絶対おかしい。記憶って何だろう。


私だって頑張れば女の子になれる。


というか、自分の中の男性性をこんなに嫌いになってしまったのか。肯定できるところが一つもない。


ドムスタの屋上で大森靖子歌ってたどう見ても社会でやってけなさそうな女の子たち今どうしてるんだろう。10年あれば何もかも変わるだろう。結婚して子どもできたりしてるんだろうか。それとももう死んでるか。涙が出てきそうになる。キモい。


子ども相手に本気で不機嫌になってしまった。子どもにまで依存し始めたら終わりだ。大人は子どもの前で大人という役割を全うする以外ないのに、絆を作ろうとしている自分に気付いて怖くなった。


「そんなわがまま言いまくっても許されていいね」という嫉妬のような黒い感情が奥の方で渦巻いていた。虐待が連鎖する仕組みを体感で理解できた気がする。俺がこの子の親じゃなくてよかったと思った。


気持ちよさだけが日々をやっていく駆動力なんだ。俺には他に何もない。


よく考えられてない思考をとにかくそのまま外部に出すこと。しっくりきちゃってる時点でそれはもう真実だから。


夢なんていう爽やかなものじゃなく、大勢の人間に称賛されて承認されて崇められる以外の未来をどうやって生きていけばいいの?という気持ちで音楽をやっていたと思う。そこまでやってようやくマイナスが0に戻るというか。でもマイナスを0に戻す作業って楽しくないからあんまり本気出せないよね。俺は辞めるタイミングが分からなくて、だらだらと惰性でこのマインドでい続けてしまったけど、俺らみたいな人間は未来とか過去のことを考えてたら幸せになれないよ(架空の友人に呼びかけています)。


今はただ未来のことなんか考えず一日一日をなんとか暮らしているのを続けている。日々巻き起こる不快が許容量以内なのでなんとかなってる。許容量オーバーしたらどうなるんだろう。また発狂とかするのかな。未来のこと考えなきゃいけなくなった時点で詰むので子育てとかは無理。老後2000万貯金とか心底どうでもいい。老後の自分ってもはや自分じゃないと思う。そこまで責任持てる人すごいね。未来や過去のことを考えていたら幸せになれないというかやっていけない。風呂でも入って身体を気持ちよくして、あわよくば心も気持ちよくなってくれればそれでいい。


かなり適当な生き方でも生きていけることを知れたし、友達も出来たので、音楽やってたことは無駄ではなかった。


女の人も自分の女性性に嫌気が差すような瞬間ってあるんですか?


どうすれば自分に価値があると思えるか、というより、どうすれば自分に価値があると思えるようになることに興味を持てるかが分からない。正統な思考を積み重ねて認知の歪みを正していく工程は知識として知っているが、やっぱり感覚としては、価値のない状態の自分がしっくり来てしまっているのだろう。人との関わりから逃げ続けた結果だろうか。


もうこれ以上言葉で考えたくない。


昔バイトの先輩の女子が、女流作家は全員子宮で文章書いてるから嫌いとか言っていたことがあった。男の自分からすると、男の作家って狭い脳みその中で屁理屈ばっか並べて馬鹿じゃないのって思うけど。子宮の方が器官として高等じゃないですか、脳より。


明日になったらまたやる気が充填されて動けるようになるのだろうか。明日にならないと分からない。


俺にこんなにたくさんの文字を書かせるものの正体は、怒りだと思う。何がメモだよ。こんなのはゲロだよ。


ピューロランドに安心にしがみついて生きてる人がたくさんいた。みんなおめかしして可愛くしてくれてありがとう。本当にありがとう。


どうやら自分は、悲劇のヒロイン的なマインドがかなりしっくりきてしまうらしい。良くないことは分かっているが、自己否定ではもうこれ以上何も変えられない。


ファンのみんなのための歌なんて聴きたくない。個人的な歌しか聴きたくない。


親密さとは何か。自分一人の世界で、あらゆるものに対して自分の姿を投影し続けているだけなんじゃないのかと思う。


小説や音楽を使って想像の世界に深く沈み込む行為は、現実逃避なんかじゃない。むしろ社会を覆っている妄想から目を覚ましたいだけ。何が現実かは俺が決める。


俺(自我)が決めるんじゃなくて、俺の心と体の総体がそれを決定している。しっくり来ない物事を無理矢理現実として受け入れようとするのは、自我に他ならない。自我を殺せ。


真に怖いのはAIではなく、AIの知恵を借りた人間だ。


世界の歪さを表現するということは、世界に対して怒りを向けるということであり、自分の代わりに怒ってくれる誰かがいるということだ。だから、必要なことだ。


目の前の人間が他者である限り、どうしてもある程度道具性を孕む。人間の駆動力は欲望だからである。基本的に人は利己的な欲望なしで人と関わることはできない。肉体を持って生まれた者の宿命と言えるかもしれない。社会的な役割は、この個々人の欲望を社会が上手く回るように区画整理されたものだろう。人を役割や肩書きとしてしか見ないということは、その人を道具としてこき使うということだ。敬意が生まれる余地はなく、精神性は無視される。人は社会がないと生きていけないけど、社会の中だけではよく生きられない。


お釈迦様が悟りを開いた後もう一度俗世に降りて説法して回ったのは慈悲の心であって、利己心とは区別されるらしい。俺にはその違いがよくわからない。いつかわかるようになりたい。


女性崇拝と女性嫌悪は紙一重というかかなり近いところにある気がする。













しっ‐こく【桎梏】
〘名〙 (「桎」は足かせ、「梏」は手かせの意) 手かせと足かせ。転じて、自由な行動を束縛すること。また、そのもの。

つつみ【堤】
1. 川や池などの水があふれ出ないように、岸に土を高く築き上げたもの。土手。
 「―が切れる」
2. 水をためた池。貯水池。

つりがね【釣鐘】
釣り下げて撞木(しゅもく)でついて鳴らす鐘。 特に寺の梵鐘(ぼんしょう)をいう。 日本の梵鐘の原形は中国周代の楽鐘で,仏教とともに伝来し,独特の発展を遂げた。

ぬくとい【温とい】
[形][文]ぬくと・し[ク]あたたかい。ぬくい。

しゅくあ【宿痾】
長くなおらない病気。持病。

のこくず 【鋸屑】
のこぎりで木を切る時に出る木くず。おがくず。

かんげつ【寒月】
冬、寒々として、さえわたって見える月。

しもよ【霜夜】
霜がおりる寒い夜。

よいまつり【宵祭】
祭礼で、本祭りの前夜に行う祭り。宵宮。夜宮 (よみや) 。

たどん【炭団】
炭の粉末をフノリなどの結着剤と混ぜ、団子状に整形して乾燥させた燃料。冬の季語。

せせ‐る
1. つつく。つついて中身をほり出す。
 「―・り箸(ばし)」
2. いじる。もてあそぶ。

おとな‐う 【訪う】
おとずれる。訪問する。

にちりん【日輪】
(丸い)太陽。

ほすすき【穂芒】
穂が出たススキ。

ふゆざれ【冬ざれ】
冬、風物の荒れさびれたころ。

シャッポ
帽子。

はか‐わら ‥はら【墓原】
〘名〙 墓のある場所。 はかば。 墓地。 墓所。

ひ‐ごい ‥ごひ【緋鯉】
〘名〙 コイの飼育品種の一つ。観賞・愛玩用として飼育。黒色の色素胞を欠き、橙赤色をしたもの。このほか体色の種々変化したものを色鯉、錦鯉などと呼ぶ。《季・夏》

おん‐ぼう〔‐バウ〕【▽隠亡/▽隠坊/御坊】
古く、火葬や墓所の番人を業とした人。江戸時代、賤民の取り扱いをされ差別された。

ばく‐しゅう〔‐シウ〕【麦秋】
麦の取り入れをする季節。初夏のころ。むぎあき。むぎのあき。《季 夏》

いお・る〔いほる〕【庵る】
[動ラ四]庵をつくって住む。仮の宿をとる。

ゆう‐つづ〔ゆふ‐〕【夕▽星/長=庚】
《古くは「ゆうづつ」とも》夕方、西の空に見える金星。宵の明星 (みょうじょう) 。

こうか【後架】
便所。


世界が毎日似たような姿をしているのは、思うに怠惰さのためだ。ところが今日の世界は変わりたがっているように見えた。とすれば、どんなことでも起こり得るだろう、どんなことでもだ。
嘔吐/ サルトル  鈴木道彦訳 p131

私はエル・エスコリアル宮殿の図書館で、フェリペ二世のある肖像画を長いあいだ眺めた経験から、権利に輝いている顔を正面から見つめていると、やがてその輝きは消え、灰滓のようなものだけが残ることを知っていたからだ。私の興味をそそるのはその滓だった。
p149

私の思考、それは私だ。だからこそ私はやめることができないのである。私が存在するのは私が考えるからだ……そして私は考えるのをやめられない。今この瞬間でさえーーまったくぞっとするがーー私が存在するのは、存在することに嫌気がさしているからだ。私は無に憧れるが、その無から私を引き出すのは私、この私だ。存在することへの憎しみ、存在することへの嫌悪、これもまた私を存在させ、存在のなかに私を追いやる仕方である。
p166

私は自分が何でもやりかねないことを強く感じている。たとえばこのチーズ用ナイフを、独学者の目にぐっさり突き刺すといったことだ。そんなことをすれば、ここにいる連中がみんな襲いかかって来て私を踏みつけ、靴で私の歯をへし折るだろう。しかし私が思いとどまったのはそのためではない。口のなかに、このチーズの味のかわりに血の味がしても、たいした違いはない。ただしそのためにはある動作をし、余分な出来事を一つ誕生させなければならない。そんなものは余計だろう、独学者の上げる叫び声もーー彼の頬に流れる血も、ここにいるすべての連中の驚愕も。こんなふうに存在する物は、もう充分にあるのだ。
p206

私はもうブーヴィルにはおらず、どこにもおらずに、ふわふわと漂っていた。不意を衝かれて驚いたのではない。これが<世界>だということは、よく承知していた。むき出しの<世界>が一挙にあらわれ、私はこの不条理な大きな存在への怒りで息が詰まるほどだった。どこからこうしたものが出てきたのか、どうして何もない状態ではなく、一つの世界が存在することになったのか、それを不思議に思うこともできなかった。それは意味がなかった。世界は前にも後ろにも、至るところに現存していた。世界以前には、何もなかった。何一つなかった。世界が存在しなかったかもしれないような瞬間はなかったのだ。私を苛立たせるのは、まさにそのことだった。もちろん、このどろどろした形も定まらないものが存在するということに、何の理由もありはしなかった。しかし、それが存在しないことは不可能だった。それは考えられなかった。無を想像するためには、すでにそこに、世界の真っ只中にいて、目をかっと見開いて生きていることが必要だった。無は私の頭のなかにある一つの観念にすぎなかった。この広大無辺の世界に漂う一つの存在する観念にすぎなかった。この無は、存在以前にやって来たのではない。それは他のものと同じ一つの存在であり、多くの他の存在の後で現れた存在だった。
p223


乞食の児が銀杏の実を袋からなんぼでも出す
夕べひよいと出た一本足の雀よ
写真うつしたきりで夕風にわかれてしまった
今朝の夢を忘れて草むしりをして居た
児に草履をはかせ秋空に放つ
鉛筆とがらして小さい生徒
わがからだ焚火にうらおもてあぶる
傘干して傘のかげある一日
めしたべにおりるわが足音
どつかの池が氷つて居そうな朝で居る
何かつかまへた顔で児が藪から出て来た
紅葉あかるく手紙よむによし
島の女のはだしにはだしでよりそふ
わが顔ぶらさげてあやまりにいく
犬をかかへたわが肌には毛が無い
鞠がはずんで見えなくなつて暮れてしまつた
がたびし戸をあけてをそい星空に出る
波へ乳の辺まではいつて女よ
人を待つ小さな座敷で海が見える
とかげの美くしい色がある廃庭
淋しいからだから爪がのび出す
ころりと横になる今日が終つて居る
久しぶりのわが顔がうつる池に来てゐる
朝早い道のいぬころ
すばらしい乳房だ蚊が居る
あらしの中のばんめしにする母と子
海が少し見える小さい窓一つもつ
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
陽が出る前の濡れた烏とんでる
迷つてきたまんまの犬で居る
畳を歩く雀の足音を知つて居る
あすのお天気をしやべる雀等と掃いてゐる
淋しい寝る本がない
咳き入る日輪くらむ
咳をしても一人
墓地からもどつて来ても一人
なんと丸い月が出たよ窓
嵐が落ちた夜の白湯を呑んでゐる
墓原花無きこのごろ
風吹く道のめくら
渚白い足出し
漁師の太い声夕日まんまろ
若葉の香ひの中焼場につきたり
妻が留守の障子ぽつとり暮れたり
雪は晴れたる子供等の声に日が当る
堤の上ふと顔出せし犬ありけり
庭の緑にことごとく風ふれて行く
はたと倒れし箒の影の夕べ
山に旭が当る頃の物音もせず
雑踏のなかでなんにも用の無い自分であつた
読んだ手紙もくべて飯が煮えたつた
椿の墓道を毎朝掃くことがうれしい
自分の母が死んで居たことを思ひ出した
ごみ捨場に行く道が雑草でいつぱいになつた
蟻にたばこの煙りをふきつける
餅を焼いて居る夜更の変な男である
蛙ころころとなく火の用心をして寝る
豆腐屋の美くしい娘が早起きしてゐる
落葉ふんで来る音が犬であつた
今朝はどの金魚が死んで居るだらう
小さな人形に小さいかげがある
なぜか一人居る子供見て涙ぐまるゝ
わが歳を児のゆびが数えて見せる
橋までついて来た児がいんでしまつた
この蟹めと蟹に呼びかけて見る
雨の日は遠くから灯台見て居る
石油の匂ひが好きな女であつた
血を吸ひ足つた蚊がころりと死んでしまつた
蛍すいすい橋は風ある
夜更の麦粉が畳にこぼれた
色々思はるゝ蚊帳のなか虫等と居る
井戸のほとりがぬれて居る夕風
麦粉を口いつぱいに頬ばつても一人
思って居た通りの枝に烏がとまつた
いつも眼の前にある小さい島よ名があるのか
くらい寐床に病むからだほり込む
咳をして痰を吐いて今日も暮れた
朝が奇麗になつてるでせうお遍路さん
入れものが無い両手で受ける
風音の夜中の柱にもたれ
今朝は雀が大勢で来てくれた
生れ出た虫よ風ある大地
落葉掃いて居る犬に嗅がれる
墓地の上は星ばかり
硝子窓に呼吸(イキ)で書いた絵が消えた
蛙をつぶし蟹を殺した児がくたびれて居る
夕づつ妻から児を抱きとる
曇り日の障子冬ざれ光れり
酔えば出て来る昔しの唄も忘れ
工場の大いなる音が暮れ行く
尾崎放哉全句集 村上護編

そんなら、物の云えない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもそう思へない、反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益々意味の深いものとなつて行くのであります。よく、草や木のだまつて居る静けさを申す人がありますが、私には首肯出来ないのであります。何となれば、草や木は、物をしやべりますもの、風が吹いて来れば、雨が降つて来れば、彼等は直に非常な饒舌家となるではありませんか、処が、石に至つてはどうでせう、雨が降らうが、風が吹かうが、只之、黙又黙、それで居て石は、生きて居るのであります。
同 入庵雑記 石

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