アイデンティティは自己完結できない

世の中にはよく使われれる言葉のわりには、意味の説明を求められると答えにくい言葉がたくさんある。アイデンティティという言葉はその最たる例の一つだろう。アイデンティティという言葉に惑わされ、苦悩する人も珍しくない。かく言う私もアイデンティティという言葉に躍らされてきた。
今回はアイデンティティについて考えてみたので、この言葉に躍らされている人はぜひ見てほしい。

アイデンティティの意味について調べてみるといろいろ出てくるが、「自己の存在証明となるもの」という解釈がある。この定義に沿って解釈を深めていく。

自己の存在があるということ

「我思う、故に我あり」というデカルトの有名な言葉がある。この言葉は、周囲のあらゆる物や自己の肉体までも存在をするのか疑ったときに、唯一疑いなく存在を肯定できたのが周りを疑うこの自意識そのものだった、ということから出てきたらしい。つまりこの考えの、思考こそが唯一の存在があると断言できるもの、という前提でアイデンティティを考える時、アイデンティティとは自己の思考そのものとなってくる。というのも、存在を証明できる要素が自己の思考のみであるからして、それ以外の自己の存在証明となる要素についての議論が生まれないからである。そうなったとき、アイデンティティ、つまり自己の存在があると証明するものは、自己の思考そのもので、全ての人間が私のアイデンティティはとなんだと悩む必要はない。なぜなら全ての人間はそうやって悩む過程でしっかりと思考をしていて、その思考こそが自己の存在を肯定しているからだ。
しかしながらこれで議論に決着がつくわけがない。もし仮に、思考があるからその人のアイデンティティは確立されたというのであれば、思考のできる人々が自己のアイデンティティとは何かと悩むわけがない。一般的なコンテクストからひも解くアイデンティティとは、自己が自己の存在があるということを証明するという意味ではないのだ。そこで議論を深めるために必要となる考えとして「どんな存在なのか」「存在がどこにあるのか」という視点を提起していきたい。

アイデンティティは自己完結できない

前述の結論は、一般的なコンテキストで使われるアイデンティティとは、自己の存在を証明する要素は自己の思考であるという、デカルト的考えではないということだ。その上でこの議論を深めるために、なぜアイデンティティという言葉で人が悩むのかを考えてみた。
多くの人は自己の存在について確かにあるものときっと知覚しているだろう。つまりアイデンティティというものに悩みを持つのは、自己の存在が証明できないからではない。自己という存在があるものの、その存在が不鮮明だから悩むのではないか。周りが盛り上がる中でそこに混ざれない自分、自分だけうまくいかない状況、そういう時にアイデンティティという言葉を用いて、自己の存在に疑問を持つ。言うなれば、自己の存在を認めてはいるものの、その彩度が悪いことを、アイデンティティが無いということで解釈している。つまりアイデンティティということに悩みを持つ人間は、自己の存在価値の大きさに悩みを抱えているのではないだろうか。
ここまでの考えに対して、正直当たり前のことを記述しているのように思えたのではないだろうか。しかしながら明確にここまでの議論をしっかりと前提として持っておいていただきたい。自己の存在は自己の思考で確立されるが、多くの人は自己の存在価値の大きさに悩む。前者は自己に留まる問題であるが、後者は他者との関係性の中に生まれる問題なのだ。アイデンティティにおける悩みは、あたかも自分自身だけの問題に思えるが、本当は他者を巻き込んでの問題であり、自己の思考を深めるだけでは解決できない問題なのだ。つまりコミュニティにおける問題だからこそ、自己という存在があるという証明だけでなく、「自己の存在がどこにあり」「自己の存在がどんなものか」という議論も必要となってくる。

「自己の存在がどこにあり」「自己の存在がどんなものか」

存在価値の大きさを測る尺度として、あるコミュニティにおける自己の役割の大きさがある。人は単一のコミュニティに属することはほとんどなく、多くのコミュニティに属する。(家族、クラス、会社、友達、日本、etc...)そのコミュニティにおいてそれぞれ、与えられた役割も違えば、その役割の大きさも違う。アイデンティティに悩む人々も、それらのコミュニティに存在することに疑いをしないものの、そこでの存在価値には疑いを持つ。アイデンティティに関する悩みを解消するためにはあるコミュニティにおいてどんな役割を果たし、どれほどの大きさの役割を担うのかが重要になってくる。
例えば考えてほしい。企業において部長という役割を持ち、その役割はとても大きな影響を及ぼしている。対して、平社員という役割で、その役割は特に大きな役割を与えない。どちらの方が自己の存在をより鮮明なものとしてとらえられるだろう。(どちらの方がより自分の存在に疑問を持たないだろう。)おそらく前者だと答えるのではないだろうか。アイデンティティに悩むのであれば、どのコミュニティであれば自分の役割が最大化されるのかを考えるのが建設的だ。あたかもアイデンティティは自己で完結するように思われるが、対外的な関係における周りとの相対性が重要となってくる。だからこそアイデンティティに悩む人間は、自分主体で自己の存在について疑問を投げかけるのではなく、コミュニティにおける自己の存在の大きさや、どうすればそれが大きくなってくるのかということに焦点を向けなければいけない。

アイデンティティで悩まないために

もしあなたが私のアイデンティティとはなにかと思い、自分探しをしているのであれば、ここまでの議論を通じたアイデアを共有したい。
重要なのは自分が何を考えるかという、デカルト的存在証明ではなく、あなたの属するコミュニティにおいての自分の存在価値(役割)の大きさなのだ。つまりはあなたのアイデンティティをより確実で鮮明なものにするのは、他者から必要とされるその総量である。アイデンティティとは自己の内面にある固有の何かを引き出してきて、それを具体化したものではない。アイデンティティとは他者からの期待や、感謝や、愛や、必要と思ってもらうそれらの総称なのだ。今あるコミュニティにおいて、どれだけ愛されるか、必要とされるか、期待されるか。それらの総量が大きければ自然とアイデンティティは確立される。
ともすれば逆説的にアイデンティティを最大化させるアイデアは自然と帰結する。あるコミュニティにおいて、必要とされるために自分だけにしかできないレベルで何かを突き詰める、より感謝されるために相手のためになる行為をする、より期待してもらうために期待を越え続ける、愛してもらうために自分から愛を届ける、そんな簡単なことだ。つまりは徹底的な他者への貢献の姿勢こそが、アイデンティティの確立につながる。自分に目を向けるアイデンティティの追求はもうやめるべきだ。他者に目を向け、他者から定義される自分の像をどうするのかというアイデンティティの追求をするべきなのだ。自分が何をしたいのかではなく、自分が相手に何をしてあげられるのか、その先にこそ、疑いようのない自己の証明が存在する。

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