君の人生に意味はあるの?

よく「自分は何のために生きているのかわからない」という言葉を聞くが、そう言っている人間が「これって意味はあるの?」という言葉を使っている場面にも出くわす。

なぜ自分の人生の意味がわからないのに、ダラダラとマンガを読む行為や、金にならない行為のことは、人生にとって意味が無いと判断できるのだろう。

迷える子羊の内の一人の私も、上記のような矛盾を起こしているが、改めて人生の意味について考えてみた。
※今回は人生の意味を考えるにあたり宗教的な要素も話すが、決して勧誘系のブログではない。

「意味」について考える

普段の文脈で使われる「意味がある」は「役に立つ」という解釈ができる。「この行為は人生に意味がある」という表現も、「この行為は人生に役に立つ」という表現も、おそらく違和感なく同等の表現として汲み取れると思う。
また、「意味がある」という動詞と同等の表現が「役に立つ」なのであれば、「意味」という名詞と同等の表現は「役割」だ。

ここで「役割」ということについてさらに考える。

役割を与える存在はどんな存在だろうか?
具体例を挙げる。

・創造主たる神が人間に役割を与える
・上司が部下に役割を与える
・飼い主が犬にに番犬の役割を与える
・作り手がネジに物を留める役割を与える

例えばこういった形だ。

共通することは自分よりも上位の存在によって役割は与えられている

つまり、自分自身が同等の存在である自分自身に役割を与えることは、自分自身と自分自身が同等の関係上、不可能である。

故に、人生に意味が欲しいという人間は、人間は神に役割を与えられて創造されたことを信じるか、社会や企業から与えてもらう役割に満足するしかない。

しかし後者の考えには疑問を持ってほしい。自分に役割を与える社会や企業のトップは同じ人間である。しかしその人物は誰に役割を与えられているのだろうか?
社会や企業から与えられる役割というものは、疑ってみると、そもそもトップが同じ人間なのだから、人間として正しい役割かどうかなど証明の仕しようが無い。

そうなってしまうと、また人間に意味はあるのかという問いにぶつかってしまう。

回りくどい説明になったが、結論として、人間の存在の意味について考える時には、私たちは二つの結論を選ばざるを得ない。
人間は神に役割を与えられて作られた存在と信じるか、人間という存在に意味はないというニヒリズムを信じるのか。

意味のない人生を生きる

神を信じる人間には、人生の意味について論じるのは必要ないだろう。
しかし無神論者たちには意味のない人生を生きるという、問題が残っている。

意味のない人生を、無味乾燥で空虚なものと捉えてしまう人には、2つの解決策があるように思える。

・意味が無いことを忘れるぐらい、何かに没頭する
・自分で勝手に人生の意味を定義して、それを盲目的に信じ切る

前者は好きなことを見つけることで、後者は自分だからできることを見つけることで成しえる。また両者は自己をより深く知ることで見つけることができる。

自己分析系の手法論は各人で調べて、実行すればいいと思う。

どう生きるか

自分の好きなことや、自身で定義する目的を決めたうえで、どう生きるのかということも重要になってくる。好きなことをどうやって貫くのか、目的地までどの道を歩くのか。

岡本太郎氏の著書「自分の中に毒を持て」の、たった数ページ目に書いてある一節がひどく心に残っている。

「自分らしくある必要はない。むしろ”人間らしく”生きる道を考えてほしい。」

「自分らしく」と「人間らしく」、このニュアンスの違いを自分なりに解釈をしてみた。

どちらの「らしさ」も、自分の望む「らしさ」に違いない。

ただ、「自分らしく」は現実的な「らしさ」で、「人間らしく」は理想的な「らしさ」と私は解釈している。

例えば、電車で席に座っていて、目の前に足腰の悪そうな老人がいるとする。
「自分らしさ」を優先する場合、声をかけるのは苦手だから自分らしく無視をしておこう、という決断を下すかもしれない。
「人間らしさ」を優先する場合、人間として弱者を労わるのは当然であるからして席を譲ろう、という決断を下すはずだ。

誰しもがなんとなくで正義や善い行いというものを理解している。しかし、それらよりも「自分らしさ」を優先して、正しさを見失ってしまう。

人生を生きる上で、「自分らしさ」という、今の自分の限界で立ち向かってはいけない。
「人間らしさ」という、理想の自分になりきって立ち向かわなければいけない。
「人間らしさ」を追求することは、自分という存在の枠を広げ続ける生き方なのだと直感した。

以上、今回は岡本太郎の著書を読んでの、回りくどいアウトプットでした。

おまけ

役割の話をするにおいて、キリスト教では本当に神が人間に役割を与えているのかというソースを探していた。
その時にふと、多神教の仏教では人間は神に作られたりしたのかなと疑問に思って調べてみた。

簡単に調べたところ仏教において、人間は神に作られたわけでもなく、地球にいつからか存在していたという解釈らしい。

その中で修業を積んだ人間が、悟りを開いて、仏(仏陀)になったとか。

仏様の気持ちはわからないが、「これが徳の高い生き方なんや!」を貫いた結果、仏様になったのかなと思う。

前述の内容も「理想的とする人間像に近づこう」という内容で、今思っていることと、仏教って結構シンクロするのかなとも思っていた。

つまり、自分もこのまま人間らしさを追求していけば、悟りを開き、3大宗教に太刀打ちする新たな宗教を作れるのではないかと予感している。

、、、冗談はさておき実際のところ、強い思想を持つ人間によって、企業という単位で宗教は作られている気がする。所謂強烈な企業文化を持つ企業は社員に爆発的な推進力をもたらし、世界的な企業になっていたりする。

だからこそ、今後の社会を生き抜くために、強烈な尖った思想を持つべくして、「人間らしさ」を追求していく所存である。

ただこんな抽象度の高すぎる話は一旦飽きたので、今後はしばらくビジネスよりな内容をまとめることにしようと思う。。

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