過去は全て今の私の経験値だから

ざっと書いて出したらあんまり振り返らなくなってスッキリ!みたいなことをこの記事で書いたけど、前回の記事についてはそうでもなかった。

自分でも、ええ……直後に……?もう前言撤回かよ……と思った。いや、数日経って今も思ってる。
多分、当時私が感じた気持ちを誰かに言ったこともなかったし、書き出すこともなかったので、外に出したのが初めてだったからかなと思う。
いくら構成とか考えずに書き出しているとは言っても、書くために当時の気持ちにフォーカスして読めるように、そしてこの先の自分にわかりやすいように明文化しようと試みたからだと思う。

いつものように、ふと思い出した、嫌だったな、と思ってすっと忘れようとするわけではなく、今回は自分から思い出して、解像度を上げてしっかり見つめて書き出したからだ。

「時折ふと思い出す」系の言葉や出来事も、なんでもかんでも、書いたらスッキリするわけじゃない。むしろ今までちょっと分析するような気持ちで思い返すことがあったとしても、しっかりまだ消化できていなかったり、「もういいか」と思えるような心境になっていない場合だと、思い出した後の厭な気分を引きずってしんどくなる。
……ということもあると学んだ。危ない。危ないというか、見極めが難しい。

まあ、かと言って書いた直後にはわからなくっても、しばらくしたら心境の変化があるかもしれないし、また時間が経った後に「もういいや」になれる一歩になったかもしれないので、うっすら放置しているだけでは思い至らなかった心境に至れると信じたい。

こうやって一つ一つ振り返って整理しようとしているところではあるが、Twitterだったかな、ここ数日メンタルが弱い人の条件の一つに「過去にとらわれている人」という言説を読んだ。

メンタルアイスクリーム人としては、間違ってはいないと思った。
こんなに過去のことを書き出してスッキリしたいと思うということは、過去に囚われているということに他ならないし、囚われている過去が多すぎるから自縄自縛のがんじがらめを続けているのだと言われれば否定しようもない。

でも私は、「過去に囚われている」ことがメンタルの弱さの原因のすべてではないし、「過去に囚われる」こと、「過去に拘る」ことがまるで悪いことのように言われる(この場合の「囚われる」「拘る」はネガティブな意味を含んでいるように受け取れる)のは、少々納得がいかない。

これは私の持論だが、過去に起こったこと、起きたこと、思い出、そういったもの全てが今の自分を作っているわけであって、良いものも悪いものも、全部「過去」と地続きで今の私がある、と思っている。
であるならば、過去に起きたことを乗り越えたいと思うことは、自分を改善したいという思いの表れでもあるだろうし、過去の栄光を思い出すことで今日や明日への自信に繋がるのなら、なんら悪いことではないのではないかと思う。

もちろん、今の私のように、また過去起きたこととの繰り返しになったらどうしよう、怖いと立ち止まってしまって、ズルズルのグダグダな生活しかできないような状況だと、それは前向きとは言えないし、メンタルが弱いと言われてしまうのも甘んじて受け入れるしかない。
良い方の過去だって、自信を持つ根拠の一つにして自分の支えにしているだけなら良いが、今現在の実力も伴わないのに無駄に過去の実績を振り回して人に迷惑をかけたり、自慢を続けたり、マウントを取ったりと、度がすぎれば良いこととは言えないだろう。
何でもそう、度が過ぎてはいけない。

起きてしまった過去は、変えられない。変えられるとしたら、自分の頭の中の「思い出」を美化して書き換えるか、忘れてしまうしかない。
でも、忘れてしまったら、経験値が減ってしまうことと同義のように感じてしまうこともあるのだ。
書き換えてしまったら、本来得られたはずの何かから目をそらしてしまうことで、それも経験値の質が変わってしまう。

苦しすぎて立ち行かないなら、忘れた方が良いこともあるし、私も忘れてしまったようなこともある
それは人間の防衛本能として仕方がないし、矛盾するようだが、それはそれでもいい。

だだやっぱりその中で「忘れられない」ことがあるなら、あれはなんだったんだろう、相手がいる話であれば、どういう気持ちでそんなことをされたり言われたのだろう、と考えることで、自分の中で「もう忘れてもいい思い出」に昇華できたり、「相手はこういうことを思っていたのかもしれないし、忘れはしないけど、もう辛いという感情と一緒には思い出さなくてもいいな」と消化できるかもしれない。
それには、大人になってから見直さなければ理解できない、時間が経たないと想像できる素地が出来上がらなかったようなものもある。

そうやっていく過程で、自分にはない視点を持つこともできるかもしれないし、自分では思いつかなかったような観点に気が付くことができるかもしれない。それは私にとっては経験値、財産だと思えるのだ。

忘れたほうが幸せなら忘れればいい。
でも、本当に、良かったことも悪かったことも、何か一つでも欠けていれば「今の」私では絶対に有り得なかった。
だから私は、覚えている過去も忘れている過去も全ては今の私の礎であり、明日の私の養分だと思っている。

人間だから、私の脳も自分の気が付かないうちに、過去を自分の都合のいいように捏造してしまっているかもしれない。「美化」ってやつ。
でもそれも含めて、今の私なのだ。私の世界は私の脳にあって、そこに私の経験値が溜まっていく。

相手がいるような過去の思い出(大抵はそうだろう)なんて、今更私が一生懸命相手の気持ちや考え、価値観を想像してみたところで分からない。
先日も書いたように、名探偵がサクサクと答えを出すような「真実」なんて手には入らないのだ。仮に相手と(今頃)連絡がついたって、話したって、同じ解像度で分析はしてくれないし、覚えているとも限らないし、記憶が変化してしまっているかもしれない。本音を語ってもくれないかもしれない。

だから、真実なんて絶対に届かない。私が過去に固執してみっともないと思われていても手にしたいと思っているのは、私が納得できるだけの仮説と、私が次の私として歩くための経験値だ。

だから私は過去を大事にする。
繰り返しになるが、起こったことを全て覚えていられるわけでもないし、本当につらいことは忘れてしまったりもするけれど、覚えていること、忘れられないことは、私が私であるために必要なことだから。

目をそらして生きていくことはとても簡単なことだ。
私も、まだ目をそらさないといられないこともたくさんある。
だけど、後ろ向きだと言われようと、こうやって過去に目を向けて考えることはやめたいとは思わない。

未来だけ見て歩けたらそれはそれで楽しいだろうし、前向きで素晴らしいことなんだろうと思う。そうやって生きることが気楽なのかもしれない。
でも、私は私でしかないから、こうやって明日の私のために、過去を大事にすることはやめない。と、思う。

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