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誕生日の祝われかた

一年に一回歳をとる。
誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。
友達や知り合い、家族の誕生日は、素直にお祝いできる。
でも、自分の誕生日は自分で自分にうまくいってあげられない。

SNSと呼ばれるようなサービスが流行りだした頃、私はもう社会人になっていた。
Twitterしかやっていない(noteはいまだにSNSなのかどうなのかわかっていない)し、ピーヒョロヒョロのダイアルアップの頃も知っているので、誕生日を公開するというのは危険だろうと思っている。
まあ、もちろんプログラマだったからということもあるかもしれないけど。セキュリティ的な意味でね。パスワードに誕生日なんていうベタなことはしていないんだけど、個人情報も個人情報だろうと思うので、Twitterに登録していないし、Twitterを通して仲良くなった友達にも、リプライでは言わないでほしいと頼んでいる。

それは頭で考えた理由の一つで、Twitterではみんなが気軽に「今日誕生日だからお祝いしてほしい」と自分で言える人がたくさんいることにびっくりした。
子供の頃から。自分から「今日誕生日だからお祝いして」ということはいけないことだと母から言われていたのが大きいと思う。

母は、私が友達の誕生日会に誘われることも良い顔をしなかった。
送り迎えが面倒くさい、プレゼントを用意することが面倒くさい、自分の娘が誕生日の時、誕生日会を開いてお返ししないといけないのかもしれない、そういうことを考えていたんじゃないかと思っている。確かめたことはないからわからないけど。
小学校の頃、一回だけ誕生日会に行った記憶があるが、ほとんど内容を覚えていないし、行く前も帰った後も、母が不機嫌だったことは覚えている。

かと言って、別に私の誕生日を祝ってくれなかったというわけではない。
いつも家族でケーキもプレゼントも買ってくれたし、地元のお肉屋さんで買ってきたステーキを焼いてくれたり、特に嫌な思い出はない。
そういう意味ではちゃんと、普通に、お祝いしてくれていた実感がある。

誕生日に限ったことではないけれど、「友達がくれるといっても、プレゼントをもらってはいけない」と言われていた。一度もらったというとめちゃくちゃ怒られた。
お礼の電話をするのが嫌だったのか、お返しを考えるのが嫌だったのか、それも今の私が推測する理由であって、本当のことはわからない。
だから、友達でもクラスメイトでも、誕生日を聞かれたら答えるけど、当日はもちろん、近い時期に「私そろそろ誕生日」とかアピールすることすら考えられないことだった。「もうすぐ」誕生日だね、と友達に言われるのも、しんどいと思っていた。難儀な話だ。
それは、プレゼントをもらうこと=母に怒られる、その確率を上げてしまうことだったから。

そうやって育ってきて、高校生のある年、私の誕生日に弟の友人が事故で亡くなった。
報せがあったのは、翌日だったと思う。確か。でも、命日は私の誕生日だった。
直接喋ったりしたことは数えるほどだったと思うが、その弟の友人とも面識があったから、私もショックだった。
「お祝い」がもう済んでいたのかどうか覚えていない。
ただ、その年から私は弟にも、私の誕生日だと言えなくなった。

弟が以降、毎年私の誕生日がくるたびに、どう思っていたのか私にはわからない。だけど、私が「誕生日だからお祝いして」と言うことは、絶対にできなかった。
思い出させてしまうかもしれないし、思い出して一人で過ごしたいかもしれない。当時の友達と思い出話でもしたいかもしれない。
弟が私の誕生日を知らないわけはないから、それよりも優先したいことがあるなら、優先されるべきだと思った。

それは他の人にとっても同じことで、私の誕生日は、誰かにとって大事な誰かを失った日かもしれないし、今まさにつらい気持ちでいる人もいるかもしれない。あるいは逆に、楽しみにしているライブとかコンサート当日だとか。
そう思うと、自分から相手のそういう大事な気持ちに割り込んでまで、「私を祝って!」という気になれなかった。今でもずっとそうだ。

もちろん、それはある種の自意識過剰であるというのもわかっている。
私は私でつらいことがあったり、そういう気分ではないと思う日々が続いていたとしても、それはそれこれはこれ、友達の誕生日ならひとこと「お誕生日おめでとう」と伝えたいし、喜んでほしいと思う。
だから、私がそういう声をあげたところで、誰も気にしないということは解っている。
そう、誰も気にしない。自ら祝ってと声を上げようが、上げまいが。

だったら、私はやっぱり今まで通り、声を上げないでいることを選ぶ。
誕生日を教えるほど親しくなった人が、当日でも数日後でも、何なら一か月後でも、思い出して「おめでとう!」と連絡をくれることが嬉しい。

いつでもいい。私から言わなくても、思い出して「生まれてきてくれてありがとう、一年無事に生きてくれてありがとう、次の一年も元気で」そういう気持ちをもってくれることが嬉しい。
今ではプレゼントだって変に意識しないで受け取れるようになった。大進歩だよ。

弟とは、お互いが大学進学で家を出たころから、ほとんど連絡も取らず喋らない時期が長かったし(それまでは私が帰省すれば実家に弟がいたからね)、そのころは数日遅れで誕生日の連絡してくることもなかった。単に忘れていただけなのだろうと思うが、それはわからない。
ただ、私はずっと、一年に一度だけ、私から弟にはメールやラインを送った。
「お誕生日おめでとう」、それと、ひとこと何かその年の言葉を添えて。
返事があろうと、なかろうと。

大人になって、結婚して、娘たち(私から見たら姪っ子)も育てて、そんな中、ここ数年は数日遅れでメッセージをくれるようになった。
今年は、当日だった。
あの年以来――私が忘れてしまっていなければ、だが――弟が私の誕生日の当日に、「誕生日おめでとう」と連絡をしてきたのは今年が初めてだった。

日付にはこだわらない。でも、何か私にとってはひとつほっとしたような気持ちになった。
お互い日々遠いところで生活していて、やっぱり頻繁には連絡を取ってもいないけど、姉の誕生日を当日に祝えるような環境、心持ちで、暮らしてくれていることが嬉しかった。

まあ、そんなわけで今後も私はTwitterでも誕生日は公開しないと思う。
もちろん、訊かれたら(全世界に発信しないところで)普通に答えるけどね!こっちから「あのとき実は誕生日でさー」とかは言うことあるし、「誕生日に行ってきた!」って日付特定されないように、写真上げたこともあるけどね!特定されないって大事よ。うん、なんとなく。

本当に、人から見たら数人すぎてこだわることないじゃないと思われるかもしれないけど、覚えていて連絡をくれる友達が大事だし、嬉しいし、それだけで私は十分だ。

私が私の誕生日をうまく祝えない話、だったはずなのにちょっと内容がズレた……まあちょっともう今日遅くなっちゃったし、今日はこれで!!
冒頭と終わりが一致しないーー。いつものことか!?

※ちなみにもちろん、今日が誕生日って話ではないので悪しからず。

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