自縄自縛

分裂している。
視界に入る文字のことではない。それはただのスマホの見過ぎか乱視が始まったのかそういうアレだ。なかなか目のピントが合いづらくなってきた。

何か選択肢があることで正解のないこと、例えば「今日外出するかどうか」どうしようかなと考えた時に、必ずどちらの答えも一通り検討してしまう。
「出かける」だと、引きこもってばかりいるからよくない。散歩したほうがいい。運動不足だ。行きたい展示会が終わってしまう。今日行っておかないと。
「出かけない」だと、だるい、しんどい、動きたくない。人に会うのが怖い。人混みが嫌だ。体調、今だと耳が心配。
で、これを天秤にかけて、起きた時からずっとぐずぐずと考えている。なんなら昨晩、眠る前から。

さらに厄介なのが、「出かける」の選択肢を取った場合、今のこの感染症が蔓延している状況、あんまり街中に出るのはどうなんだろう、もしウイルス拾ってきたらどうしよう、家にいた方が安全だ、無駄な心配をしなくて済む、そういう「世間の目」みたいなものを気にしだしてしまうことだ。これで怠惰に「出かけない」の方に大義名分ができてしまう。

自分がどうしたいかで決めてしまえばいい。それは重々わかっているんだけど。わかっているけどできないことってある。

出かけたいんだけど出かけたくない。どっちか自分でもわからない。5分おきに考えも気分も変わる。これが行先が病院だったり、人との約束だったりすれば、考える余地もないのでなんの苦労もない。

こんなくだらないことに悩んで時間を費やすのは本当にもったいないと自分でも思うのだが、これがまあ、なにかにつけてこの調子、日々予定がない日の方が多いわけで、自分で全てを決めていいし、決めなくてもいい。となると、だいたいの時間、分裂した自分と意見交換をしていて疲れてくる。選択の余地なく「ねばならない」だと動けるなら、さっさと社会復帰して仕事してしまったほうが健全だろう、と自分でも思うのだが。

先週、耳の不調で病院にかかるかかからないかについても、ずっと行く派の自分と行かない派の自分が戦っていた。
この不調はおとなしく寝ていれば治るのではないか?こんな具合が悪い状態で一人で病院に歩いていけるのか?途中で具合が悪くなったら?でももし、難聴とかで治療が遅れて音楽ができなくなったら?耳がもとに戻らなかったら?行った方がいいに決まっている、だけど先生にまた(※初めて行った病院です、近々他の病院で先生と相性が悪かった)嫌なことを言われたり、こんなことぐらいでと言われたら?嫌だ。とにかく家からでたくない……

お菓子がある。
今食事制限して、肝臓やコレステロールの数値を下げるために頑張っているんだから食べるのはやめよう。いやでも、今これを一つ食べたところでどれほどの差がある?今まで我慢してきたのに食べてしまったら無駄になるよ。後々悔やむことになるかもしれない。でも賞味期限も近い。これ一つで死んだりはしない。食べないことでストレスになる。いやでも。

お菓子一つでこんなに悩んでアホみたいだと思う。
ちょうど昨年の3月から4月、気持ちが落ち込んでどうしようもなくなったきっかけの一つが、この「分裂感」だった。いやお菓子の話じゃないけど。

ご近所づきあいというか、そういう色々の云々で、「あそこのお嫁さん(私個人としてはそういう呼ばれ方はうれしくないけど、ご年配の方やそういう価値観の人もまだたくさんいそうと勝手に思っている)は家にいるのに」「介護や子育てしているわけでもないのに、手助けもしないのか」とかなんとか思われていたらどうしよう、そんな風に思われるのは困る、嫌だ(周りの人に失礼かもしれない)。今後ずっとここで生活していくなら、多少無理してでも頑張らないとだめなんじゃないか?

でも本音は、自分の体調も安定しないし何のために仕事を辞めて療養しているのかわからなくなってしまうし、知らない人と関わるのは怖い。悩ませないでほしい。しゃべりかけないでほしい。訪ねてこないでほしい。
でも。でも、「あるべき論」で言ったら……どっちが正しいかで言ったら。どっちを選んだら「喜んでもらえる」のか。

この時に書いて先日気が付いたことだったけど、やっぱり私は自分がどうしたいかよりも、何を求められているのか、それを遂行することが「正解」と認識していて、それを選択できない自分を責めていたし、「私が我慢できればみんな幸せなのに」と思っていた。

結局、義父がきっぱりと「困りまーすできませーーん」(意訳)と言ってすっと話は終わっていき、それ以降何も言われなかった。

夫も義父も、そういう「人からどう見られるか」「どうするのが正解か」なんていうことは考えていない。考えているのは自分がどうしたいか、できるかどうかだけだ。
実際この件をずっと引きずっていて(未だに!)、私がぎーぎー喚く度、夫は「無理ですできませんって言えばいいし、できないんだから仕方がないでしょ」という。「じゃあ本当にそこまで無理して我慢してでもやる?」と言われると、「やだ」となるので、まあそうやって選択していくのが自分に正直で良いと思う。

思うんだけど、やっぱり私は「お前さえ我慢できれば……」と耳元でささやく自分の声を無視できない。この声というのが、実はカウンセラーさんが言っていた母の価値観、ものさしだったんだなということに、気が付いていても。

気が付いたというのがカウンセリングを受けたことによる進歩の一つだったと思うが、じゃあ気が付いたからといって簡単に無視できるのかというと、また話が別だった。

小学校低学年でまだあんまり教室で喋れなかった頃、何だったかは忘れたが、学級委員みたいなものを決めるのに、なり手がいなくてずーっと沈黙が流れていたことがあった。それがいたたまれなくて嫌だった。もちろん私もなりたくなかった。でも、結局私はしびれを切らしてしまい、「やります」と言ってしまった。
それが母から「あなたがちょっと我慢して頑張れば、周りが喜んでくれてうまくいくんだからそれでいいじゃない」と言われた後の話だったのか、前の話だったのかも忘れてしまっているけど、とにかく、その言葉と「なんかの委員に立候補した」という記憶がセットで残っている。
褒められたのだ、珍しく。褒められたような言葉に聞こえないかもしれないけど。

でもそれはずっとある意味呪いとして残ってしまった。
私が我慢することで、周りが喜んでくれ、うまくいけば、母は褒めてくれる。喜んでくれる。

なんとか委員みたいなものに、いくら立候補がいないとは言っても自分を殺してまでも立候補するというようなことは以来ほとんどしなかったけど(覚えてないけどハブられてる上に委員なんて嫌だったんだろうなとは思う)、「私さえ我慢すれば」という気持ちは、ずっと何かあるたびに心の底に残っていて、自分の気持ちとあるべき論が一致しない場合に、すっと首をもたげてささやいてくる。「我慢すれば?」「お前さえ我慢しておけばいいんじゃない?」
そいう価値観を植え付けたのは母かもしれないけど、今耳元でうるさく言ってくるのは自分でしかない。横に母がいて見張っているわけでもないんだから。自分で自分を縛り付けてもがいている。アホらし。

無意識に多角的に物事を考えてしまう性格だということもある。人の目を気にしてしまうから。
よくそんなにいろんな立場から物事を考えるね、と夫に呆れられるのもしばしばだ(そんなだからストレスが溜まってしんどくなるのではという呆れだよ)。
こっちの立場の人はどう思っているか?あっちは?
こっちの選択をしたらどういうメリットデメリットがあるのか?あっちは?

そう、メリットデメリットだ。最大多数の最大幸福。
多角的に物事を考えるのは良しとしよう。だけどどういう選択をするかというときに、自分の幸福より最大多数の最大幸福を選んでしまったら、自分が幸福ではないこともある。
最も別に私は今不幸だと思っているわけではないので、「幸福」というのは言葉の綾だが。

知り合いでも、自分がどうしたいのか、自分の気持ちを最優先に選択して生きている人たちを見ると、ああいう生き方ができるのってうらやましいなと思うことがある。言い方が悪いけど欲望のままに生きられる、というか。
人生一回っきりだから、気持ちの赴くまま、やりたいように生きられるのが一番かもしれないな、とはとても思うんだけど、実際私にはできないなと思う。やりたいかと言われてやりたいわけではないこともあるけど。

休職した頃から、ずっと「自分を大事にね」といろんな人から言われてきたけど、ピンとこないままだった。別に自分を雑に扱っているつもりもなかったから。だけど、自分がしたくないことを我慢してすること、気持ちに正直でないことは、自分を大事にしていないことだということは、この数年間で学んだ。

学んだはずだけど、できないんだなーー!!と思いながら寝っ転がっている。寝っ転がってはいない。パソコンでちゃんと文章打ってる。
そろそろ春だ。また昨年と同じような話があるかもしれない。そう思うだけで憂鬱になって、外に出られないでいる。人の目が気になっている。冒頭の出かける出かけないの葛藤には、その不安が根を張っていて、だからこそ余計に「気にするな出かけろ!」と「無理するな」が戦いを繰り広げている……

まあ、というわけで結局私は今日は自室に籠っている。相変わらず自縄自縛のがんじがらめ、あるべき論と自分の気持ち、それでも優先したのは今日は気持ちのほう。だけど、自縄自縛だったら、その縄をほどくのも自分でできるはずだから、きっと明日か明後日か、未来の私がほどいてくれる、はず。
ああ、今日までの展示会よさようなら……

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