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万人の孤独(クオリア)と「ウタ」

歌は良いね。
歌は心を潤してくれる。
リリンの生み出した文化の極みだよ。

渚カヲル

 へろーえゔりわん。

 今更ながら観たよ、あのめっちゃ話題になってた映画アニメ。

ONE PIECE FILM RED

 本当に今更すぎてビックリする。というわけで今回はネタバレ込みでウタちゃんAdoちゃん映画であるONE PIECE FILM REDの感想を書いていくよ。ネタバレ嫌な人はアマプラで観てこい。

◾️事前評判

 というかここまで観るのが遅れたのにはそれなりに理由があってですね。皆さんFILM REDのTL上での評判っていうか受動喫煙で入ってくる情報がどんなんだったか覚えてます?覚えてない?1年前?それは本当にそう

 私がこの映画を敬遠してた理由ってのがこの事前に入ってきた受動喫煙での断片的な情報だったんだけど。

・最強の夢女がヒロイン

∟ルフィの幼馴染でシャンクスの娘でみんなに愛される歌姫

・映画というよりAdoのMV

・ヒロインは最終的に死ぬ

 いやキッツ。

 というのも私、極度かつ重度の夢女アレルギーで。いや夢女が好きとか嫌いとかのレベルではなくて。こう、作り手の自己投影がニチャニチャのオリキャラが他のキャラにチヤホヤされるみたいな話が本ッッッッッ当にダメで。だから異世界転生系のなろうアニメとか3分持たずに切っちゃうんだけど、こうしてFILM REDの事前に流れてきた評判書き出すとかなり私の苦手なラインナップの詰め合わせみたいになってるんですよね。

 あと正直Adoのこともよく知らなくて、知ってるのは「うっせぇわ聴いてそう」というのはいわゆる陰キャ誹りみたいなネットの風潮くらいで、ボカロ全盛期になんか……そういうのあったな〜みたいなこう……いたよねそういうイタイ人たちとそれを踊らせるために作られた作品諸々……っていう気持ちがあって……正直Adoのこともバリバリに避けてた

◾️きっかけ

 まあそんなこんなで「多分観ねぇわ」と思ってた映画をなんで観たか?っていうと、先日帰省した時に実家の父・妹に連れられてカラオケに行ったんですね(母は仕事だった)。

 その時に妹がカラオケで「Tot Musica」を歌っているのを聴きまして。 

 この曲とPVが結構衝撃的で。

「え?ウタって魔王系ラスボスの女なの?」

っていうのを初めて知りまして。そうなると話は変わってきます。

 なぜなら私は魔王系ラスボス女が大好きだから

 というか強キャラが好きなんですね。以前チェンソーと鬼滅にハマってた妹に「好きなキャラ誰?」って聞かれて「黒死牟とマキマさん」って答えて「なんでそんな地獄みてぇなキャラばっか好きなん?」って引かれたこともございます。ウマ娘の推しはテイエムオペラオーです。つまりそういうことです。

 妹の歌うTot Musicaがメチャクチャカッコよかったのもあり、俄然FILM REDへの興味が沸きました。PVもメチャクチャカッコよかったし、映画でこの曲絶対カッコよく使われてるじゃん!!そのシーンが観てぇ!!!っていうので観るに至りました。

◾️令和の「ルーク」

 で。見終わった私に1番に浮かんだ感想は、「ウタ、令和のルーク=フォン=ファブレじゃん……」でした。いやこれマジで意外だった。

 皆さんはご存知、というかこの記事読んでる人は全員履修済み(決めつけ)のテイルズオブジアビスですね。まあTOAは義務教育の内容なのでいちいち細かくは説明しませんが

 FILM REDって要は「孤独だった子どもがネットで持て囃されて引っ込みつかなくなっちゃった」って話だと思うんですけど、TOA民にはご存知アクゼリュスの経緯と同じですよね。あれはネットではなく顔見知りというか恩師だった訳ですが、仕組みは同じですよ。

 孤独な子どもは優しさに飢えている。愛されたくて、認めて欲しくて、褒められたくて苦しくて仕方ない。だから、それを与えられるためだったらなんだってする。

 それが間違っていると気が付いても止められない。

 騙されていたと教えられても認められない。

 だって子どもにとってそれらを否定することは、唯一自分を愛してくれた人が本当は自分を愛してなんかいなかったと認めることだから

 ファンたちに否定されてじゃあもっと、もっとやり方を変えれば認めてくれる、と泣き叫ぶように歌姫を演じるウタのシーンが、私にはアクゼリュスの瓦礫の上で仲間たちに見放されるルークのシーンがバリバリにフラッシュバックしてちょっと目が死んだ

 TOA多分冗談抜きに20周くらいしてるけどあのシーンだけはマジで何回プレイしても慣れない、というか大人になればなるほど「いやルークがそう言うのも仕方ないよ……まだこの子7歳なのに……」ってなってツラさがコクを増す。15年以上じっくりコトコト煮込んだカレーです。

 そんな15年以上煮込んだカレーの味わいも相まって終盤のウタにはかなり保護者寄りの目線というか救われて欲しかったですね……救われねぇの!?ってのはマジ意外だったけど多分あれだよね、パープルヘイズ現象ですよね……(パープルヘイズとはジョジョ5部で能力が強すぎるという作劇上の都合により物語からドロップアウトさせられたスタンドの名前。別名羽蛾のエグゾディア投げ)。その辺は尾田っちの漫画家としてのなんらかの線引きがあるんだろうな、って感じました。

 だからまあ、ウタが相当に色々盛大にやらかしたことは間違い無いんだけど、それって周囲の大人たちの優しさが一つずつボタンをかけ違ってしまった結果のようなもので、しかもウタは16〜18歳くらい?のおもくそ反抗期の女の子なわけで。その子がゴードンさんよりもネットの声に踊らされて引っ込みつかなくなって、ってのは本当にもう子どもだから許してあげてほしいんだが?って感じるんだけど、そこをキッチリ落とし前つけさせる尾田っちは流石に任侠映画好きなんだろうな感が凄すぎるよ。

◾️FILM REDはAdoのMVだったのか?

 さて、最後に個人的な見解を書いておきたいのはMV問題。

 私も「私は最強」が流れたあたりは「おっとこれはもしかしてこの映画こういう感じか……?」と評判に納得しかけた。だって「新世界」から「私は最強」まで多分10分もなかったよね??テレビアニメならギリAパート内に2曲だよ

 とはいえ、ルフィとウタの過去回想あたりからこのミュージカル仕立てなのはむしろ尾田っちの要望なのかな、と感じた。

 というのも、私漫画版のONE PIECE読んだ時に凄い印象に残ってたことがあって。それはビンクスの酒の歌詞がメチャクチャ長くてそれが全部書かれていたこと。ブルックの過去回想のシーンだと思うんだけど、映画を見てる最中にそこを読んだ時のことを思い出して「尾田っちは多分歌というものが作り出すドラマや演出に憧れや執念に近い何かを持ってるのかな?」と考えた。

 漫画にはたくさんの素晴らしい点がある。動きも、色も、感情も、時間も、漫画は全てを描き出すことができる。読み取れるかどうかは人に差があるかもしれないが、多くのことを伝えることができる。間違いなく日本で独自の進化を遂げた最高峰で最新鋭の芸術領域である。尾田栄一郎はその漫画界において、まさにリビングレジェンドであり、ONE PIECEの漫画に詰め込まれた情報量はそれだけ尾田栄一郎が漫画でどれだけのことを伝えたいかの表れでもあるのだろう。

 でも、唯一音だけは伝わらない。キャラクターの声は読者には聞こえない。仲間たちの喜びの歌は聞こえない。

 長い長いビンクスの酒のシーンは、尾田栄一郎が「素敵な歌と共に過去を流し観る」というアニメやドラマでよく使われる手法をどうにか漫画で表現したかったのだろう。

 だからFILM REDはその尾田栄一郎による「最高の漫画」が「最高の音楽」を伴って映像化したのを観たい、というある種独善というか、自己満足の結果こういう形になったのかな、というのが私の印象。

 漫画にせよ、映画にせよ、「何かが生み出される時」に最も必要なのは「作り手による『これが観たい』という熱意と妄執」だと思う。

 逆にそれが欠如した作品は決して良いものにはならない。それはもう、これまでにたくさんの爆死アニメたちが証明してきたこと。神アニメたちがみせつけてきたこと。

 その点で言えば、むしろAdoは尾田栄一郎による、恐らくは「世界一最強の歌姫」という無茶振りなオーダーを全霊でやり遂げた素晴らしき協力者だったのだろう、と思う。

 なので私はFILM REDをAdoのMV映画、と感じる人が出てしまうのはまあ仕方のない所はある、と思うけど、Adoの売名のためにONE PIECEという作品が踏み台にされた、というほど酷いものではなかったなと感じた。

 また、ウタというキャラクターが「万人の陥りうる孤独」と「歌」をテーマにしているのも面白いなと思った。尾田っちが知ってか知らずかは分からないけれど。
 心理学の分野において「クオリア」という言葉がある。人間は自分の見ている赤色と、相手の見ている赤色が同じだと共有することはできない、という話なんだけど。
 赤といえばトマト、りんご、ポスト、血。共通認識としてそれらを共有することはできても、相手の目が映して脳に投影されている「赤」は、自分の脳では「緑」と呼ばれる色かもしれない。というような。
 それらは、繋がっているように見えて本質的に人間は孤独だよね、という思考の元になるものなのだけど、個人的にはその孤独を超越し得るものが「音楽」だと思っている。
 音楽に好き嫌いはあるとしても。お互いに歌って聴かせ合えばそれは「お互いが同じものを認識している」という証明になる。これは、視覚情報である色にはできないこと。
 それが映画の中で万人の持ち得る孤独と、それを共有する夢の世界への誘い手というキャラクターとして成立させられているのはかなり個人的には意味を感じるところでもあった。
 だからこそその孤独の中でがなり立てるように歌うAdoという歌手の抜擢は、そしてその歌唱力に全賭けするようなTot Musicaを作曲した澤野弘之は、マジに慧眼と豪胆を持ってるなと思った。
 

 実際のとこはわかんないけどね?

 ただ私はこうやって作者がどういう経緯で作品を作ったのかとか、その時の作者の心情とかを想像してそれを啜って生きる妖怪なので、今回は非常に珍しい栄養が取れましたよ、という話でした。

 ではまた次回。


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