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22歳と世界と境

今年の些細な目標。ひとつめ、少しでもいいからギターを弾けるようになること。ぽろぽろ弾きながら歌を歌いたいから。ふたつめ、楽しいとき、うれしいときにも言葉を残すこと。悲しいときにしか言葉を残せないタチですが、わたしの人生の大半は明るさと喜びに満ちているから、その時の自分を残してあげないのはなんだか不平等な気がする。


わたしは、けっこうな頻度で自分の発したものに救われる瞬間がある。それは、自分の歌った歌であったり、書いた言葉であったり、撮った写真だったりする。ちょっと心がどんよりしたとき、自分の写真や書いた言葉を読み返すとけっこう落ち着く。自分で生み出したものが自分のお守りになる感覚、便利な人間。


その理由として最近ふと思ったのは、「境界線」という言葉だった。
この前、姉と話していたとき、たまたま境界線の話になった。どうやら、姉が知り合いに「境界線」という本について教えてもらったらしい。それは外国の方が書いている本。詳しくはあまりわからないのだが、多分自分と他人についての境界線について書かれている。おもしろそうだなと思ったが、聖書からの引用が多いらしく、読み進めるうちにウッとなるらしい、余計気になる。


わたしは、自分が境界線を守ることがちょっぴり下手な人間だと思っている。自分の境界線を無視して入り込んでくる人と関わることがたびたびあったというのもあるし、自分も他人の境界線を理解できず突っ込んでしまう癖があるというのもある。
最近SNSで、三森みささんという漫画家が境界線について投稿していて、けっこう印象的だった。自分と他人には境界線が2本ある、それは、「あなた」と「わたし」の1本ずつ。もし境界線が1本だと、侵入的になってしまう。
その侵入的という言葉に見覚えがありすぎて、目から鱗だった(その漫画のリンクを貼りたいのになぜかエラーが出て貼れないので気になった方は「三森みさ」とTwitter(現・X)で検索してみてください...!)。


その境界線の曖昧さでむずかしいなあと思う場面に遭遇することがわりとあって、どうしたものかしらと思う。現在進行形で思う。侵入されたくないし、侵入したくない。だってわたしはわたしで、あなたはあなただし。
それを思いすぎて、やや人と距離を取りすぎることもよくあるし、逆に距離を無くしすぎて勝手に傷ついたりもする。やっぱりむずかしいなと思う。


わたしは曖昧な境界線なんていうものをもつことが今のところ苦手。そこで登場するのが、自分の生み出したものなのだと思う。ここでこの文章の最初らへんに戻る。
自分の生み出したものは確実に自分のものであり、それは他人に侵食されることはない。ないし、許されないことでもある(歌った歌は既存曲なので生み出したとは言えないが、そこは一旦いいとします)。だから、目に見えない境界線というものをもつことが苦手なわたしにとって、存在として残る文章や歌や写真は自分を保つものな気がします。



そんな感じで境界線についてぽーっと考えていたら、ふと2年ほど前に高校の先輩が渡してくれた本のことを思い出した。タイトルは、「14歳と世界と境」というもの。

14歳と世界と境

これは、下道基行さんという方が、さまざまな国の14歳の少年少女たちに「あなたの日常にある境界線を探してきてください」という課題を出して文章を書いてもらったもの。それが地方新聞の誌面に載り、それをまとめたものがこの本。
これは「旅する本」で、読んだ人は手元に残さず、誰かに渡さなきゃいけない。わたしは6人目の読者だったのだが、途中でとある方が、「20歳の人に渡すこと」というルールを作り上げており、わたしのところにも20歳のときにやってきた。そして、最後の方には白紙のページが何枚かあり、各々書きたいことを書けるようになっていた。
そこで、20歳だったわたしは「わたしの思う境界線」というテーマで、こう書いていた。

私とあなたの隔たり2枚分の厚さ、ガラス越しで手を重ね合わせても体温は感じられる。そういうことでいいのだと思う。

これは最後の2文。おそらく深夜テンションで書いている、ていうか覚えている...。かなりポエミーで今読むとむずむずするし、もうちょっとさらっと書きなさいよ、とも思うが、今よりもちゃんと境界線についてわかっているなと思った。
今この本がどこに、誰の手に渡っているのかはわからないが、20歳という節目で読んで、今また思い出せたことはうれしい。


これからもたくさんの境界線を作りたい。それらはしなやかにわたしを守り支えてくれる、そんな気がする。



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