泣き続ける子をあやしながら
大きいものを手術で取ってもなお「100個くらい筋腫がありますね」と言われた私の子宮に宿った息子なので、「この子は生命力が強いかもしれないねぇ」と言われたのを思い出しながら、肩口でえんえん泣いている息子をあやし、歩く。
いやぁ、泣き続けるなぁ。さすが生命力が強い。
保育園に迎えに行ったら、びゃんびゃん泣きながら息子がでてきた。
涙をティッシュで拭いながら先生が説明してくれたことには、遊んでいたプラレールをお友達に取られてご立腹になり、喧嘩に発展、イライラが募りレールをぐちゃぐちゃにしたところを先生に怒られ、以後泣き続けているとのこと。
ああ、そりゃあ、ねぇ、むずかしいねぇ。
プラレールを取られて悲しかったことも
それで頭にきたことも、
だからといっておもちゃをぐちゃぐちゃにしてはよくないよという先生の言葉も、
全部正しいのだから。
3歳にして世の複雑さと対面している。
大変だなぁ。
大抵、明確な悪はそう多くなくて、みんながみんな自分らしく生きているだけなのに、資源(おもちゃ)や人手や気配りは有限で、他の人にもそれぞれ思惑があるから色々起こる。
一応大人で親だから、なにか気の利いた対応策を伝授したいのだけれど、そうサッとは頭がまわず、曖昧な反応をしてしまうのがつらい。
「それは悲しかったねぇ」
「悔しかったねぇ」
「ぷんぷんしちゃうよね」
と泣き続ける息子に声をかけ、抱っこしながら頭をなでても、一向に泣き止まない。
「でもおもちゃぐちゃぐちゃにしたらよくないのは、息子くんもわかってるよね」
と話したところ、泣き声が一層強くなったので、そのあたりに核心があったのかもしれない。
わかってるけど、ぐちゃぐちゃにしちゃったのが自分でも悲しかったとか、悪いってわかってたけど先生に怒られたのがつらかったとか。
あるいは、もっと取った子の方を怒って欲しかったのかもしれないし、おもちゃを取られた悲しさをフォローして欲しかったのかもしれない。
それすら私の想像に過ぎないから、兎角この世はむずかしい。
結局、家に着くまでずっと泣き続けた息子は、家についても泣き止まず、手を洗ったらお布団にもぐって、一緒に寝転がりながらしばらく泣いて、30分後くらいにようやく落ち着いたようだった。
すっきりした顔で夕飯をとりながら「だって、(とったの)ひどいよねぇ。しょうでしょう?」と舌ったらずな口で憤慨する息子。
「そうだねぇそれは嫌だよね」と相槌をうちながらも、でもあの時間はお迎えが遅めの子で合同保育だし、お友達が歳下だったらまだそういう発達段階かもしれないし、などともにゃもにゃ考えてしまう。
「そういうときは貸してって言おう」とか「まだ使ってるのって言ってみよう」とか話したけど、息子も私もなんとなく釈然としなかった。
世の中白黒はっきりしないことが多くて、答えが決まっているテストの方がよほど簡単だ。
息子より長く生きている割にふがいない親で申し訳ない気持ちになりながら、それでも「自分の気持ちを大事にしてほしい」という点だけははっきり思う。
人を叩いたり、物にあたるのは良くないけど、「悲しかった」り、「頭にきた」り、「イライラした」気持ちは、息子だけのもので、否定されるものではない。
それは大事にしてほしいから、安心して「泣く」ことで不快感を表現できているという意味では、泣きに持続力があるのもそう悪いことじゃないのかもしれない。
久しぶりにたっぷり息子の涙に付き合って、いつもは息子を追いかけ駆け抜ける帰り道をゆっくり抱っこして歩いた。
息子は、泣き続けながらも、靴下を履き、外靴に履き替え、帰宅したら手を洗い、私に「着替えてきていいよ」と言ってくれるなど、やるべきことはするする行ってくれる。
そういう冷静で淡々とした部分と、泣き続ける激しいエネルギーが彼の中に同居しているのが面白い。
力強くて、眩しい。
息子の気持ちに、私は充分に寄り添えただろうか。
どうするのが正しかったんだろうと後で悩んだけれど、書いて少しすっきりした気がする。
気持ちは大事に、でも問題行動だけは注意する。難しい解決策はいっしょに悩む。
お母さんももう少し、広い意味で勉強しようと思うよ。少しは君の力になれるといいな。
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