天職や情熱には二種類ある。スピリチュアリティーに導かれた私の例

「結局、愛してるんだよね……」
敗北を喫したように、つぶやく。ただしその表情は、幸福に輝いている。
色恋の話ではない。
私の人生でこのせりふが当てはまるのは、「スピリチュアリティーの分野に携わること」についてなのだ。

あなたの人生にも、幾度となく「やめよう」とか「離れよう」と思っても、底知れぬ情熱が確かに存在していて、結局それをやり続けている――そんな分野があるだろうか。

私のそれは、スピリチュアルカウンセラーという仕事になっている。そしてこれに関しては、「好きを仕事に!」というのとは、ちょっと違うなぁと思う。抵抗したくても「運命づけられている」と言いたい性質のものなのだ。
冒頭で「愛」という言葉を出したくらい、並々ならぬ思いはあるが、昔から好きで好きで仕事にしちゃいました!というのでは絶対ない。

対照的なのが、◆「妥協なく、本当にやりたいことができると信じてる?~書く楽しさの原点に私が戻るまで~」に記した私の「書くこと」への情熱で、こちらは、ごく普通の意味での「好きなこと」に入ると思う。
子どもの頃から自然と好き、得意、そして将来の夢として考えたことがあるものに該当する。

それぞれの「私」にとって、一番知っているようで知らないのは自分自身のことである。あなたは、あなた自身についてどれだけ知っているだろうか。

私には、表層の自分の奥に、ドンッと居座っている自己がいて、その自己はスピリチュアリティーに対して完全なコミットをしている。この人生の私が身に付けたパーソナリティーが、どんなに「もっと他に色々あるじゃん」と言っても、その自己に影響を及ぼすことはできない。

つまり、私にとっての書くことのように、「好き、楽しい」と思える情熱と、そういった感覚や感情が発生するもっと以前の、好きとか嫌いではない根源的レベルで決めている情熱と、両方があるということに、気づいている方はいるだろうか。
後者について、私の経験をもとにお話ししよう。

はじまりから、その道への準備が行われている。私が夢で知っていたこと。

スピリチュアリティーを扱う分野に立ち入ること自体、そもそも私の考えたことのない「発想外」の道だった。
昔から心や精神への関心はある方だったと思うが、いわゆるオカルトや霊の話に興味はなく、「見えない世界」にのめりこんだり、信じたりする傾向もなかった。かえって、疑ってかかるタイプだったくらいだ。
ただし、幼い頃から、超能力や宇宙人については「ある」と知っていたし、夜空の星を見上げると愛しさとともに「帰りたいなぁ」という思いが湧いてくるのが常だった。これについては、誰もが皆、もれなくそうなのだろうと思っていたが、やがて、そうでもないらしいことを知る。

そんな、一見さほどスピリチュアル道への引きが強くなさそうな私を、ずーっと異世界へ牽引し続けてきたのは、「(睡眠中にみる夢)」だった。
(夢については、現在は◆「明晰夢基礎講座」という個人レッスンの講座をオンラインで行っている。)
毎日の夢を覚えているのは当たり前だし、夢の世界で様々な体験をした。
この人生では見たことのないもの、知らないストーリー、多様な時代や場所や人々、生物、別の自分、壮大な世界があった。
夢を見るのは楽しみだったし、そうした別のリアリティーが「この世界」に比べて非現実的ということはなくて、私は、たくさんの人生を同時に生きているように感じていた。

だから度々、「たとえば夢の中のあの人生と、今のこちらの人生、行き来はできるのかな?」というようなことも考えた。
夢の中で親しかった仲間(私も、この私ではない)と不定期に会った後は、こちらの現実に戻ってくると彼らが消えてしまうことが嘘みたいで、「一体現実って何だろう?」と、リアリティーが歪むような思いをすることもよくあった。
ついさっきまで、目の前にあった世界や人々が、こちらには存在しない。
そして、逆もあるのだろうとわかっていた。この世界もまた、夢のひとつであるということだ。

そうした背景があったから、その後の人生で色濃くスピリチュアリティーを学ぶ道に入っても、元から知っていたことを「スピリチュアル分野で使われている言語」に当てはめ、自分の体験と照らし合わせていると感じることが多かった。

カミダーリィとスピリチュアル通過儀礼

沖縄のユタの世界観では、ユタになる過程で「カミダーリィ」を経験すると言われていることを、あるとき知った。他の文化でも、宗教者やシャーマンが目覚める前の段階で、病や試練を経験することがある。
それらの情報はスピリチュアルな仕事をするようになった後に知ったことだが、妙に納得してしまったのは、私がまさに、そうした試練によってこの道に導かれたからである。(具体例はブログ「BEATS AND LOVE」の、主に「過去の歩み」のカテゴリなど。)

自分を癒し、目覚めざるをえない立場にならなければ、私はスピリチュアリティーを扱う分野を特に望んで勉強しようとは思わなかっただろう。ただの趣味ならば、他に楽しい趣味は色々とありすぎた(笑)

自分の入り口が、そのような「命をかけた真剣な歩み」であったからこそ、ある時期に関わった「スピリチュアルの業界」に対する反発は大きかった。まるで娯楽や趣味のようにスピリチュアリティーを楽しみ、消費する人たちがいるということに驚き、違和感を持った。私の目からは、対象をスピリチュアルという分野に置き換えただけのエゴの満足、いわば「スピリチュアル・エゴ」を増長させていく、スピリチュアリティーと真逆に思える内容もあったのだ。

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