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Cafe SARI . 12 「 諦めの先にあるもの 」

入梅した途端、猛暑日のような厳しい暑さが 続いていたかと思うと、7月に入り例年よりかなり早い梅雨明け宣言がされてから、東京地方はここ一週間ほどは暦が逆戻りしたかのような曇天の日が続いている。一体今年の夏はどうなっているのやら。天候不順は気圧の変化とともに厄介な片頭痛を連れてくる。沙璃はここ数日間、日常的に鎮痛剤を手放せなくなっていた。

今日も朝から一日中しとしとと小雨が降り続いている。店の前の小さなスペースに地植えしている紫陽花は去年よりもたくさん花をつけてくれた。天からの恵みを受けたしっかりと厚みのある緑の葉がみずみずしい。満開の花はこれから少しずつ淡いグリーンからブルーへ、そこからさらに深い赤みを帯びたパープルへと変化してゆく。それはまるで人の移り気な心模様のようだと沙璃は感じる。心の有り様は時と共に流れ、そして変化した先にある希望を見つけようと懸命に咲くのだ。

雨に濡れる紫陽花は改めて見ると本当に風情がある。毎年こうして繰り返し元気に咲いてくれるその健気な姿は、無条件に沙璃に安心感を与えてくれる。毎日水やりをしていると、「この一年よく頑張りました。今年も咲いたね」と、お互いに励まし合うような気持ちが湧いてくるのだった。今年も早めに花を切って、ドライフラワーにしようかと考えながら、沙璃は今夜の料理の仕込みに取り掛かった。

BGMは朝から続く頭痛を少しでも和らげたくて、ビル・エヴァンスの曲の中でも特に優しいナンバーをかけることにした。

ジム・ホールのジャズギターの音色は、ビルの軽やかなピアノに寄り添うように語りかける。決して主張しないのにこんなにも心奪われるのは、沙璃の心がこのところのお天気のように少し物悲しいからかもしれない。

離婚して一人になってから、沙璃は寂しいという感情にはずっと蓋をしてきた。何故なら、それを認めてしまうとどこまでも自分を卑下してしまうか、悲しい女の烙印を自ら押してしまいそうでとても嫌だったのだ。決して強がりではなく、寂しくなんかはない。ただ、時々ふと思う。今の自分を無条件に全面的に受け止めてくれるという人は、今現在この地球上には一人も存在していない。その現実と向き合い認めることの虚しさは、この店で一人踏ん張って立っている気概のようなものを足元からぐらつかせてしまいそうで、いつもどこか心の片隅に沈澱している一抹の不安を容赦なく掻き立てた。

なんの結論も出ないような、考えても仕方のないことをぐるぐると考えるのはきっとこの低気圧のせいだ。沙璃はこのところ、調子の悪いことはみんな低気圧のせいにすることにしている。そうすれば、自分ではどうすることもできない、束手無策だと諦めがつくのだった。



今夜のメニューは茄子とベーコンの重ね焼きにしよう。耐熱容器にスライスしたナスとベーコン、そしてスパイスのきいたトマトソースを交互に重ね、最後にチーズを乗せてオーブンで焼く。冷蔵庫には昨夜仕込んだセロリとプチトマトのピクルスがいい塩梅に漬かっている。サラダにするロメインレタスはたっぷりと水を張ったボウルにつけておく。あとはマッシュルームを細かく刻んで加えたフレンチドレッシングを作ればいいだけだ。

仕込みがちょうど終わる頃、一人目の客がドアを開けて入ってきた。顔を上げて見たその久しぶりの姿に、沙璃は驚きと共に歓喜の声を上げた。

「皐月さんじゃない!どうしてたのよ、ずっといないみたいだったから心配してたわ」

「こんばんは、沙璃さん。なぁに、そんな泣きそうな顔して。私はこの通り元気よ。ちょっと用事があって、先月から福岡に行っていたの」

前谷皐月。同じマンションの上階の住人で沙璃とは年が近い。沙璃が3年前、離婚して転居してきた時に、引っ越しの挨拶をしてからのつき合いだ。皐月もやはり離婚経験者で、独り者同士、時々お互いの部屋でお茶をしては沙璃の話し相手になってくれていた。もちろん CafeSARI の常連客でもある。


「福岡…って、もしかしてお子さんに会いに?」

「えぇ、バスケの部活で怪我をしたって言うから、ちょっと様子を見に」

「まぁ、それは大変。大丈夫なの?」

「成長期の関節痛が酷いのね。それで膝を庇って変な体勢になった時に足首を捻って亀裂骨折したらしいの」

「それはかわいそうに。康介くん…、だったっけ?」

「そう。中学生って一年見ないと劇的に成長するのね。康介と向き合って立った時、目線が上なの。私の身長を超えていてびっくりしちゃったわ」

「そうなんだぁ、すごいわね。これからまだまだ伸びるんでしょうね」

皐月はカウンターの中央に腰掛けると、スプリッツァーを注文した。白ワインをソーダで割った爽やかなカクテルは、湿度の高いこんな日には最適なアペリティフだ。


皐月は5年前に夫と離婚した。原因は詳しくは聞いていないけれど、当時小学生だった康介くんの親権問題ではかなり揉めたらしい。家庭裁判所の調停でもなかなか決着がつかなかったのだが、最終的に夫の元へ引き取られることになったのは、他ならぬ康介くんの希望を尊重してのことだった。予想外だった皐月の落ち込みようは酷く、しばらくは仕事を休まなければならないほどで、精神的に立ち直るのにかなりの時間がかかったらしい。その時のことを時々思い出しては沙璃に愚痴を聴いてもらうのが、皐月の唯一の慰めでもあった。

「確か一年に一度は会えてるのよね?それでも伸び盛りのお子さんは成長が早いんでしょうね」

「そう。もうほとんど子供の頃の可愛さはなくなったわね。筋肉質の身体になって、声だって変わっちゃって。電話じゃ最初は誰だかわかんないほどよ」

子供の成長を喜ぶ皐月の嬉しそうな顔には、ほんの少し寂しさが感じられた。本当は自分で育てたかったのだから当たり前だ。生まれた時から溺愛してきた息子が、まさか父親の方へ行くとは思ってもいなかった皐月にとって、今でも心のどこかで燻るものがあるらしい。

冷えたスプリッツァーを少しずつ味わいながら、皐月はグラスの底から立ち上る泡を小さなため息と共に見つめていた。

「ねぇ、沙璃さん。私やっぱり間違ってたのかしら……」

「……と言うと?」

しばらくの間、皐月は考え込むように黙っていた。子供を持ったことのない沙璃には、きっと想像もつかない複雑な思いがあるのだろう。しかし皐月の胸中を察すると軽々しい気休めの言葉や慰めなど、何一つ役に立たないだろうと悟るのだった。

「私も飲もうかな」

沙璃は皐月と同じく、フルートグラスにスプリッツァーを作った。

「皐月さん、乾杯しよ!」

「え、何に?」

「わかんないけど……、とにかく久しぶりに会えたから。私は嬉しいの」

「そっか、ありがと。じゃあ、乾杯!」

軽くグラスを合わせると、軽やかに弾かれる音色に少しだけ心が前を向く気がした。皐月は先程までの表情を一変させ、沙璃に向かって柔らかく微笑んだ。

「ねえ、皐月さん、お腹空いてるでしょ?茄子とベーコンの重ね焼き、食べる?」

「うん、食べる食べる!そうなのよ、私、とってもお腹が空いてるの。だからこんなに力が出ないのよね。余計なことまで考えちゃうし」

「そうよ。美味しいお酒を飲んで美味しいものを食べたら、きっと元気になるわ。ちょっと待っててね、すぐに焼けるから」


沙璃は先ほど仕込んだ耐熱皿をオーブンに入れた。自分ができることはこれしかない。人の悲しみはその人のもので、いくら心配したところで代わってあげられはしないのだ。だったらせめて、心を寄せて自分がその人のためにできることをやろう。少しでも皐月さんの心が前を向くこと、軽やかになれることをしよう。それはきっと今の自分にとっても、燻った何かを振りきるために必要なことのような気がする。


その時、ドアが勢いよく開いた。

顔を見せたのは河原直哉だった。こんな雨の降りしきる日には必ず来てくれる、CafeSARI にとっての福の神。沙璃は心のなかで直哉のことを密かに「エンジェル」と呼んでいる。


「直哉さんいらっしゃい、お待ちしてました!」

「え、待っててくれたの? 僕を?それは嬉しいなぁ」

直哉はいつものように、カウンターの一番奥の席についた。そして沙璃に向かって何か持参したものを差し出した。

「沙璃さん、はいこれ。旨そうなワイン見つけたから買ってきたよ」

カウンター越しに受け取った細長い紙袋の中身を取り出してみると、以前一度飲んで美味しかったと直哉に話したことのある銘柄のワインだった。

「わぁ〜、これはアルザスのリースリングですね。いいんですか?本当に?」

「もちろん。一人の時間に家でゆっくり楽しんでもいいし、例えば……、今ここで開けてもいいんじゃない?  そちらの……お客さんも良ければご一緒に」


自分のことだと気づいて、皐月は驚いて直哉を見た。

「そうですね!それがいいわ。今、開けますね。三人で乾杯しましょう!」

沙璃が言うと、皐月は嬉しそうに目を輝かせて言った。

「私、白ワイン大好きなんです。嬉しいなぁ、ありがとうございます。今夜はここへきて大正解だったわ」

「そりゃよかった。僕もね、ここに通うようになってから、ワインが好きになったんですよ。沙璃さんに勧められていろんなワインを飲むんですけど、料理に合わせてセレクトしてくれるから、余計に美味しい味わい方ができるんですよね。それってもう、おいしいワインを飲みたくなったらここに来るしかないってことでしょ?上手いよねぇ、沙璃さんてば」

「へぇ〜、そうなんですか。私もワインは大好きだから気が合うかも〜」

皐月が直哉に話し返すと、すかさず沙璃が間に割って入った。

「何言ってるんですか!直哉さん、いつもハイボールばっかのくせにぃ」

「あ、バレました? そうでしたっけ? じゃあ、今夜から僕はワインしか飲みません。一生ワインにします。ハイボールは卒業です!大人になります!」

二人のやりとりを呆気に取られて見ていた皐月はたまらず笑い転げた。

直哉はやはり福の神でエンジェルだと沙璃は思った。先程までの沙璃と皐月の間に漂うただならぬ空気を一瞬で晴らしてしまったのだ。こんな風にその場の雰囲気を即座に読んで、全く関係のない話を持ってきて、何も知らない素振りをしながら実は直哉はわかっていたに違いない。ドアを開けた瞬間の、この店に漂うひそかな悲しみを帯びた微妙な空気感を。


身内でもなければ恋人でもない。大人同士の友情にも似た信頼の上に成り立つ関係性。それはここ CafeSARI で沙璃が少しずつ育んできたもので、唯一無条件に安心できる場所。そして心を預けられる人たちだった。他にもこんな店は探せばいくらでもあるだろう。でも、あえてここを選んで来てくれる人たち。それは沙璃にとっては心の拠り所でもあり、自分を認めてくれる証のような気がした。

人に必要とされる喜びは、自分が孤独を感じている時には余計に格別なものがある。なんのために生きてるのか時々わからなくなるのは、人間は皆、孤独だからだ。孤独だからこそ、人の心の温かさがわかるようになった。そして自分も人の寂しさや虚しさを少しでも温められるような人間でいたい。沙璃は言葉にできないような嬉しさを噛み締めながら、直哉が持参してくれたワインを開けた。


三人のグラスが重なり合う。鐘の音のように軽やかに響くそれは、先ほど女二人で合わせた時よりも一層華やかで優しい音だった。爽やかなマスカットの香りとともに口中に広がるフレッシュな味わいは沙璃の心をさらに開かせ、ふつふつと湧き上がってくる喜びと感謝の気持ちに包まれた。


「美味しい〜〜!本当に美味しい。ね、皐月さん。美味しいでしょう?このワイン」

「えぇ、と〜〜っても!」

「それはよかった。今夜ここへ持ってきて大正解だったね」

「直哉さん、本当にありがとうございます。 あ、こちらは私のマンションの上階の住人で、お友達の前谷皐月さんです」

沙璃から紹介された皐月は、直哉にワインのお礼を言い、自らも自己紹介した。

直哉も皐月に自分のことを少し話した。そしてまたここで三人で飲みましょうと約束してくれた。

「これから時々ここで、三人でワインの会をやりましょう。僕、また旨いのを仕入れてきますから」

「それは素敵な提案だわ!ぜひお願いします」皐月は嬉しそうに答えた。

「ねぇ直哉さん、うちにも美味しいワインはありますけど・・・」

「あれ? そうでしたっけ? そっか、ここはバーだったね。忘れてました!あはははは」


今夜は直哉に感謝だ。二人と三人ではこんなにも世界が変わるのか。沙璃は先程まで抱えていた漠然とした不安やしつこい片頭痛がいつの間にか完全に消えて無くなっていることに気付いて、心が晴れるのをしみじみと感じていた。

一期一会の出会いは、時を重ねて信頼へと姿を変えてゆく。お互いの心を慮りながらなるべくゆっくりと、そして確実に。

どうにもならないことも、諦めることも、大人にはたくさんあるけれど。それでも前を向いて生きていこうと思えるのは、きっとこんなかけがえのない時間を持てるからだろう。諦めの先にあるもの。それは思わぬ輝きに満ちた、奇跡の積み重ねの上にできた結晶なのかも知れない。

今宵もまた CafeSARI で優しい夜がふけてゆく。夜露に濡れた紫陽花の花のように、艶やかに華やぐ時を味わいながら。



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