今日のあなたは

『今日のあなたは』第8回

8、淳之介が告白する

 淳之介は一向に現れる気配を見せなかった。毎日でも、という発言に責任を持ったわけではないが、自律ができないジュンを見張るためにほとんど同棲のような生活が始まる。彼の家に一人でいる時間を得たあたしは、掃除の名目で室内の物色を始めた。
 確認したところ、ケータイは電話帳だけでなく通話履歴や過去のメールに至るまであたしの連絡先に繋がりそうなものは悉く削除されていた。手帳は行動予定ばかりで彼の内面までは見えてこない。日記帳は読めば読むほど「交代人格への報告」しか書かれておらず、初めにジュンが「何でもかんでも」と言ったのが情報量に騙されていただけだと分かる。これが本当に日記なら、あたしとの出会いだって事細かに記されていそうなものだが、付き合い始めてようやく「報告」されているのだ。
 しかし、これだけ丁寧に日記帳を綴っていた淳之介ならば、自分自身の胸の内を書き留めたくなることもあったのではないだろうか。むしろ本物の日記が先に存在していて、交代人格に読まれても構わないものを新たに設えた可能性だってある。
 最初に調べたのはダイニングのデスク周り。寝室がジュンのテリトリーならばデスクは淳之介の城だと思ったのだが、こちらは日記帳然り仕事マニュアル然り「見せても構わないもの」しか置かれていなかった。次に目を付けたキッチンも、一人暮らしに見合った最低限のものしかなくて何かをこっそりしまい込むなどできそうにない。
 というわけで、あたしは寝室に戻ってきた。こうなると余白の多い本棚とクローゼットはフェイクですらない。本丸は部屋の向かって左側に築かれた混沌である。
 淳之介は「自分」の全てをコントロールしたがっていた。この部屋にあるものくらい完璧に把握していただろう。そんな予感が的中したことを告げるように、ジュンが散らかした雑誌やCDはぴったり本棚に収まっていく。洋服もクローゼットに片付けていく途中で、シンプルなブリーフケースの中にそれを見つけた。
 やはり淳之介の日記だった。
 ジュンに渡っていた日記帳と同様、ノートに延々と書き連ねる方式で五、六冊ほど。もしそれらが全て淳之介のものだとすると、日記のスタートは彼らの共同生活の始まりに重なるのかもしれない。
 一番新しいものを手に取ると、パサリと封筒が落ちてきた。間に挟まっていたらしい。
『奏絵ちゃんへ』
 淳之介の文字である。
 あたしは急いで中の便箋を取り出した。
『この手紙を君に届ける勇気が僕に残っているのか甚だ疑問なのだけど、まずは言葉にしてみなければならない。それに、もし僕がまた逃げ出したとしても君はきっともう一人の僕に会いに来る。その時のためにも、この手紙を書いておかなければと思っている』
 鳥肌が立った。
 淳之介は先の先まで読む男だ。自分が潜在意識の奥へ逃げ出す際の下準備すら終えておく、そうなった時のあたしの行動まで想定の範囲内らしい。
その筆跡は、書くのに苦労したのかいつもの几帳面な文字が少しだけ乱れていた。
『まずは謝らなければならない。僕はなかなか君と向き合うことができなかった。こうして手紙を書くよりも先に会いに行くべきだということも分かっているけれど、そうするのが怖くて仕方がないのだ。たとえそれが勢いで口をついた言葉だったとしても――そう思いたいけれど――君が彼を選ぶと宣言したのは、僕にとってあまりにも恐ろしいことだったから。
 それでも、僕は君にとても感謝している。君は解離性同一性障害という、厄介極まりない人格障害を抱えた男を見捨てないでくれた。この手紙が読まれているということは、つまりそういうことだろう?』
 あたしの方こそ、謝らなければならない。
 淳之介をたきつけるつもりで口にした一言が、そこまで彼を追い詰めるものだとは思いもしなかった。罵倒されることはあっても感謝されることはない。
 手紙は更に彼の解離性同一性障害の話へ続く。
『改めて僕と彼の話をしよう。僕が彼の存在を知ったのはまだ十代の頃。今もその気はあるけれど、当時は更に人間不信が酷くて片っ端から他人を拒絶してなるべく関わらないように生きていた。そんな時に見つけたのだ。自由で素直で他者とぶつかることを厭わない、自分とは正反対のもう一人の自分を。
 自ら作り出しておいておかしな話だけど、学生時代の僕には交代人格こそ脅威だった。身に覚えのない彼の行動に振り回され、何も知らない相手から自分を否定された。でも、何よりきつかったのが彼を肯定されることだった。だって僕は彼ではないし、彼にはなれないのだから。
 学生の内は彼の影に怯えていたけれど、社会人になってからは僕の方がよっぽど利口に振る舞えることに気が付いた。仕事という居場所と役割を与えられて、僕の症状は落ち着いてきた。日記帳や伝言板で接触を試みるようになったのもこの頃だったと思う。彼の心証は良くなかったようだけど、少なくとも彼は僕を置いてどこかへ消えることもなければ僕の前に現れてとどめの一撃を与えることもない。ずっと人間不信で他人を拒絶していた僕にとって、付かず離れずの距離感はむしろ心地良かった』
 意外だった。
 あの報告の嵐からして、淳之介が「もう一人の自分」を別人格ながらも「自分の一部」とみなしていたのは間違いないが、ここまで友好的な記述をしてくるとは思わなかった。ジュン同様、上から目線は否めないけれど。
『彼の方が人好きのする性格であることは思い知らされていたが、改めて自分の状況を確認して気付いたことがある。彼にはその人柄を発揮する機会、つまり誰かと人間関係を構築するだけの時間がなかったのだ。彼もまた孤独だった。そしてそれは、自ら他人を拒絶した僕よりも深刻なものだった。彼がしばしばお金を使ってまで女の子遊びに走っていたのは、僕への当て付けとか道徳観念の欠如とか以前に、ただただ人恋しかったからだろう』
 そんな馬鹿な。と、思ってしまってからラブホテルの一件を思い出す。
 言われてみればジュンがそういうことをしていても不思議はない。そして記憶がなくとも「同一人物」であれば互いの事情を知ることも起こり得る。
『彼は誰かを必要としている。僕が面と向かって他人と対峙できないのとはまるで逆で、目で見て手で触れられる確かな相手を求めている。それを知って僕は、彼の求める「誰か」を探してみる気になったのだ。心を開けない代わりに自分と相手を俯瞰することを覚え、他人との距離感を学習し、君と出会うまでにはなかなかクレバーな男を演じられるようになっていたと思う』
 二度目の「そんな馬鹿な」が頭をもたげる。
 要するに淳之介は、傷付けることも傷付けられることもない疑似友情や疑似恋愛を通してジュンに紹介できる相手を探していたのだ。そこにまんまと引っ掛かったのが、あたし。
『君と付き合い始めるまでの経緯は今思うと失礼極まりないものだった。本当に申し訳ない。ただ、おそらく僕は「君なら」と彼に報告した時点で君に惹かれていたのだ。彼には最低限の情報しか与えないようにしていたし、いつの間にか僕自身の君と過ごす時間が大切になっていた。こんなことは初めてだ。あの誕生日を君と過ごすことができていれば、或いは、状況は全く違っていたかもしれない。
 けれども、結局のところ君の前に現れたのは彼だった。僕が君に拒絶されることを恐れて逃げ出したからでしかなかった。だから僕には傷付く権利も嫉妬する権利もないはずなのだ』
 何故こんなにも、この手紙は罪悪感に溢れているのだろう。
 動機きっかけは何であれ、淳之介はあたしに好意を抱いてくれた。その状況であたしがジュンに惹かれたならば、彼が傷付くのも嫉妬するのも当然の感情なのに。
『君が彼を慕うのは当然だ。僕自身、そうなることを前提に君と彼を引き合わせようとしていた。だから、こんなことを言う資格がないことは分かっている。それでも自分の気持ちをとことん考えて、もう一度君に会った時に伝えたいと思った言葉は――』
 ――コンコン。
 ノックの音にハッとする。振り返ると彼がいた。
「ジュン!」
 淋しげに、彼が微笑する。
「じゃない、淳之介?」
「部屋が僕の仕様になっているから、彼はへそを曲げてしまったんじゃないかな」
 すっかり片付いた寝室を眺めて淳之介が言った。
「読んだんだね」
 彼は手紙に視線を落として尋ね、それと同時にあたしの正面に回り込んだ。じっとこちらを見つめる。
「月が、きれいですね」

                              <続き>

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