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『最後のデート』

 電車を降りて初めて、僕は雨を意識した。
 家を出た際に既にパラパラ降ってはいたものの、駅まで至近距離で地下鉄だったために今まで気にせずいられたようである。なんて、言っても今更どうしようもない。僕は待ち合わせした駅の出口で彼女の到着を待っていた。
「ごめんなさい、待った?」
 ジーンズにネルシャツにカーディガンというラフな装いで、長い髪を一つにまとめている。スカートなんか穿いてきちゃくれないこと、分かっていたのに改めて気付いてしまう。
「いや、そんなに……」
「つまり、待ってはいたのね」
 揚げ足を取られて苦笑する。けれども、彼女の悪戯じみた笑顔に僕はむしろ愉快だった。
「雨降っちゃったね」
「入っちゃえば大丈夫よ」
 そして僕らは歩き出す。都会にそびえ立つ屋内水族館へと。
 記念すべき最後のデートに降られたのは残念だったが、これもまた良い思い出になるのかもしれない。

          *

「ここ、いいですか?」
 安っぽい大衆食堂の相席が、僕と彼女の出会いだった。
 平日の昼時とあって周囲には昼食を詰め込むサラリーマンしかおらず、かく言う僕もその一人。優雅で気品あふれる彼女は明らかに場違いな存在に見えた。そもそも席取りに苦心している感じが既に溶け込めていないと言えよう。
「どうぞ」
 彼女が小さく会釈して向かいに座る。それ以上の何かなんて起こるはずがなかった。もしもあの時、僕がダイレクトメールに目を通していなければ。
「それ、夢物語の……」
 いかにも、封筒には『劇団夢物語』とある。大学時代の友人が送り付けてきたものだった。
「え、知ってるんですか?」
 友には悪いが、知名度ゼロのアマチュア劇団である。しかし彼女は笑って頷いた。
「ええ」
 屈託のない、少女のような笑みだった。
「私、高校時代演劇部だったんですけど、当時の先輩がそこに所属しているんです」
「ウソ」
 ドクリと胸の鼓動を感じ、慌てて平静を装った。
「僕は大学時代の友人が。世間って狭いですね」
 話してみると、観に行こうと思っていた時間が重なっている(二人ともどうせ観るなら千秋楽、という発想だった)ことが分かり、
「じゃあ、また会いますね」
 なんて冗談めかして言ってみる。実際、顔さえ覚えていれば――そして僕は絶対に忘れないから――見つけられる規模の小劇場なのだ。再会の約束を交わすかのようにして僕らは別れた。
 ちなみにあの日、彼女が不慣れな土地へ迷い込んだのは、近くの病院に入院している身内の見舞いに訪れたからだった。

          *

「なんか、リッチねえ」
 水族館としては不可思議なその一言が、彼女が最初に漏らした感想だった。
「都会のど真ん中のビルにこんなもの突っ込んで本当に大丈夫なのかしら?」
「一応、今日まで大丈夫だった実績がありますが」
「ついつい考えちゃうのよね。地震で割れたら、とか」
「うーん。もしこの水槽が割れるレベルの地震が起きたら、たぶん水槽の心配してる場合じゃなくなるんじゃない?」
「何それ?」
 思い切って誘ったかいのない会話である。僕がガチガチに意識しているのとは対照的に、彼女の語り口はフラットだった。
「不測の事態についてはあまり考えないタイプ?」
「考えないというか、考えられないから不測の事態というか……大概は杞憂で終わるしね」
「私は最悪の状況をよく想像してしまうわ」
「飛行機が落ちないか、とか?」
「そう。だから私、飛行機は乗れないの」
「さいですか」
 では今日は何故ここに来てくれたのか、考えるのはちょっと怖い。
 彼女はしげしげと水槽を眺めている。僕は水槽を眺める彼女の横顔を眺めている。そんな僕らの目の前を縞々の熱帯魚が横切った。
「きゃあ可愛い、とかないの?」
「私をいくつだと思ってるの?」
 分からないけど、きっと僕より二つか三つ上。
「ちょっと、何で黙るのよ」
「ごめんなさい」
 彼女はむくれて先を行く。
「あ、ちょっと」
 慌てて追いかけると彼女は平然と振り返った。
「何?」
「へ?」
「だって今、呼び止めたでしょ?」
 そう来られると逆に反応に困る。
「……なんだかなあ」
 僕はまた苦笑していた。
「でも、ようやくデートっぽくなってきた気がしない?」
「はい?」
 良すぎたテンポが崩れたことでそう思ったのだが、彼女は同意してはくれなかった。
「それは、どういう……?」
「いや、何て言うか」
「……」
「……」
 反動で訪れた沈黙は、ちょっとばかし重かった。
 僕は困惑した彼女の顔をまじまじと見つめ、その本意を読み取った。やはりそうなのか。
「一つ、お願いがあるんだけど」
「何?」
 覚悟を決めて、深々と頭を下げる。
「今日だけ……今日だけは、僕とデートしてくれませんか?」

          *

 先に誘ったのは確かに彼女の方だった。
「ねえ、今度また一緒に観劇に行かない?」
「え?」
 夢物語の公演の後、食事を共にしたのは幾分成り行き任せだったが、ここではっきりと彼女が誘ったのだ。
「なかなか周りに小劇場の面白さが分かる友達がいないのよね」
「友達……入院中の身内は?」
「あの人は、演劇に興味ないもの」
 彼女にとって僕が「男」でないことは明らかだった。「友達」と言われたからじゃない。もちろんそれもあるけれど……観劇は映画鑑賞と違ってデートにはならないのだ。
 基本的に飲食禁止の狭いハコに並べられたパイプ椅子。役者がリアルタイムで演じるため、いい劇であればあるほど舞台からの圧が強い。そこに同伴者と二人きりの時間や空間は存在しない。たとえ終演後にお茶やご飯に行けたとしても、どうしても観劇会の色が濃くなる。
 それでも僕は彼女と出掛けてみたいと思った。
「そっか。どんな奴が好きなの?」
 彼女の劇の好みは、僕とは正反対だった。

          *

 ずいぶんと長いこと沈黙していたような気がする。
「……あの」
「デート?」
「はい」
「あなたはあたしとデートしたかったの?」
「まあ、はい」
「そう……」
 再び彼女は黙考を始める。左手の人差し指が、顎をトントンとたたく。
「……一つ、アドバイスするとね」
「はい?」
「初めてのデートに屋内水族館はダメよ。気心知れないうちから閉鎖空間は息苦しいし、青白い照明が相手の顔色を悪く見せるの」
「……僕らはまだ、気心が知れていないと?」
「ええ。男女としてはね」
 男女としては――
「その可能性は、僕らが男女として気心が知れるようになる可能性はありませんか?」
「ないわ」
「絶対に?」
「絶対に」
 にべもなかった。
 僕は憮然として……いや、分かっていた。だから彼女と最初で最後のデートをしようと決めたのだ。きちんと告白して、きれいさっぱり振られるために。
「あなたなら、きっといい人が見つかるわ」
「違うな。いい人だからいつも友だちコースなんだ」
 精一杯の僕の皮肉に、彼女は淋しげに笑った。
「最後に一つだけ。僕のことは『一緒に観劇に行ったお友達』ではなく『人妻に言い寄ってきた馬鹿な男』って覚えておいてください」
「そんな男のことだったらさっさと忘れるわ」
「そっか、そうですね」
 言ってしまうと、いつまでも未練がましくここにいることはできなかった。
「じゃあ……ご主人、早く元気になるといいですね」
「ありがとう。さようなら」
「さようなら」
 出会った時から脳裏にちらつくマリッジリングの輝きを消し去りたくて、僕は足早に歩き出した。

                             〈了〉

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