今日のあなたは

『今日のあなたは』第7回

7、ジュンと模索する

 着信拒否の状態だったにもかかわらず、あたしはあっさり迎え入れられた。客間を兼ねたダイニングキッチンではなく半分が無法地帯の寝室の方へ。
「俺があんたのことを全然知らないって思い知らされたよ」
 そう言って白い歯を見せるのは間違いなくジュンである。
 どうやら予期した通り、淳之介はもう一人の自分とあたしを繋ぐ情報を断ってしまったらしい。扉の伝言板には以前のような几帳面な指示書きもない。
「奏絵、あいつと何があったんだ?」
「ちょっと怒らせてみただけよ……え、淳之介に何かあったの?」
「俺が知るわけがないだろう。こっちには奴の記憶もなければ奴と直接話す機会も絶対に得られないんだから」
 もっともな反論だが、それでもジュンは分かる限りの現状を話してくれた。
「ここしばらく……って言っても三日くらいだけど、奴は潜在意識の中に引きこもっている。どうやら表に出てきたくない理由があるらしい。あんたと連絡が取れない状態にさせられたっていうのもあるが、奴にはそこまでのダメージを食らう相手がそもそも奏絵しかいないはずだ」
「……本気で言ってるの?」
 だとしたら敦田淳之介は、あたしと出会うまで一体どうやって生きてきたのだろう。
「当たり障りなく生きてきたみたいだからな」
「みたいって、あなたの人生でもあるでしょう」
「俺の人生なんかおまけだ。こちとら知らない間に何日も、酷い時には何週間だって過ぎ去っていく。立て続けに出番が回ってきたのは初めてだ」
「そうなんだ」
「だから何があったって話」
「何って、本当に大したことじゃないのよ」
 淳之介がジュンに嫉妬しているのなら、そして感情を解放できないでいるのなら、彼を煽ってみるのも手だと思うではないか。あたしはその感情を受け止める覚悟はあったのだ。
「だとしても、俺を選ぶと断言するのは不味かったろうな。それは奴にとって完全な人格否定だから」
「そっか……」
「訂正するにも奴が出てくる気配はないし、言葉で取り繕ったところで奏絵が奴よりも俺を取ったのは俺たちが身を以て感じた事実だ」
「だからって淳之介を否定するつもりはないのよ」
「分かってる。でも、奴にはそれが分からない」
 ジュンが溜め息を吐く。
 その態度に、ふと疑問が生じた。
「ねえ。あなたが彼の心配をするのは、もちろん悪いことではないけれど……ものすごく違和感だわ」
「あ?」
「だってそうでしょ。ジュンは普段から淳之介の意識の下に押し込められていて、傷付けたり傷付けられたりを担当させられているんだから」
 あたしがそう言うと、ジュンは見慣れた笑みを見せた。
「前に奏絵も言ったじゃないか。俺は俺で現実逃避してるって。そういうこと」
「どういうこと?」
「だからさ、もう一人の自分が堅実に生活してくれているからこそ俺は自由で無責任な存在でいられるんだ。結局のところ俺と奴は持ちつ持たれつっていうか、絶妙なバランスを保って互いに依存していたわけだよ」
 ジュンの生き方は極めて刹那的である。時々ふらりと現れるくらいで丁度いいのだそう。
「あいつが引きこもるとなると俺も現実を、それも自立した大人っていう分かりやすい現実を見なくちゃいけなくなるだろ」
「じゃあ、ジュンは自分が主人格として普段の生活を送れるようになっても困るの? 何かやりたいこととかないの?」
「俺は自分の置かれた状況を理解するようになってから『今日一日』以上の時間軸を考えられなかった。よって人生設計は奴に丸投げしてある」
 つまりジュンは淳之介ではなく自分の心配をしていたのだ。
「で、考えてみたの?」
「何を?」
「これからどうするか。立て続けに出番が回ってきた非常事態なんだから考えてみるでしょう?」
「いや、俺は奏絵を待ってたよ」
 さも当然のように彼が言う。
「あたしが淳之介と喧嘩別れしたならもう会いに来ない可能性だってあったじゃない」
「それはない。だってあんたは俺とあいつが別人だってちゃんと分かってるし、俺から逃げ出すような女でもない」
 一つ、ジュンにぴったりのライフスタイルが閃いた。
 ヒモである。この顔と性格なら、稼ぎのある女の子を捕まえてしまえばきっと当座の生活には困らないだろう。もちろんあたしの恋人である以上は、そんなことはさせないけれど。
「じゃあ改めて聞くわ。これからどうするつもり?」
「さあ、どうしよう?」
 あたしに聞くなら答えは決まっている。
「働きなさいよ」
「へ?」
「淳之介の仕事がいいわ。とりあえず行ってきなさい」
「……ちょっと待って」
「待てない。だって既に少なくとも三日、無断欠勤しちゃっているのよ。社会人としては相当不味いわ」
 目の前のことに一つずつ対処していくのであれば、ジュンにはまず現実を見てもらわなくてはならない。こういう時のために(と言っていいか分からないが)淳之介はきっちり仕事のマニュアルを残していたはずだ。
「淳之介の職場なら解離性同一性障害についても理解があるんじゃないかしら」
「はあ」
 あいつの代わりなんかやってられるか、みたいな文句とともに断られる展開も考えられたが、ジュンはそもそも自分が働くという実感が湧かないようだった。
「頑張ってみましょうよ。あたしも応援するから」
「……応援って?」
「そうね。仕事で疲れたあなたのこと、毎晩だって慰めてあげる」
 こんなに簡単でいいのだろうか。素直に笑みを浮かべたジュンの手をかわして更に発破をかける。
「今日はダメ、まずは明日のために予習しましょう」
 そう言えば淳之介の仕事って具体的には何だろう。その手掛かりを探すためにあたしたちはダイニングのデスクに向かった。
 次の日、約束通りジュンを訪ねると案の定ぐったりとした彼がいた。
 それまで寝室の半分を除いた家の中は淳之介によってきちんと片付けられていた。しかし、ジュンがデスクの書類に手を付けたことで領域分担は消滅し、足の踏み場がなくなるまで時間の問題に見える。
「あり得ない! 毎日あんなところでじっとしていることのがよっぽどストレスだろ。あいつの頭はどうかしている。いや、どうかしているから二重人格なんだっけ?」
「そんなに仕事、大変だったの?」
 昨日の時点でジュンは「要するに一日パソコンの前に座ってりゃいいんだろ」というかなり乱暴な認識で予習を終えていた。それ以上のことは実際にパソコン画面を見なければ理解できそうになかったのだ。
「仕事内容はそうでもない。もともと俺の脳みそのどこかに埋まってる知識だからか初めてにしちゃ上手くこなせたと思うぜ。それに分からないことを分からないと開き直るのは奴より俺の方が得意だ」
 自信満々に言わなくてもいい気はするが、確かにできないことを認めるのは大事かもしれない。
「ただ、周りの連中はいただけないな。俺が俺だってことが全く以て理解されない」
「きっと相手も戸惑ったのよ」
「奏絵は一発だったじゃないか」
 それは「惚れるなって方が難しい」ほどのレアケースではなかったか。いや、ジュンが出向いた先は淳之介の職場なのだ。二重人格を隠し続けることは難しいから、彼なら何か手を打っていたはずである。
「なあ、俺は『おかしくなった敦田淳之介』じゃないよな?」
「え、ええ。もちろん!」
 ジュンがいつにも増して強引に、力強く抱きしめる。
「奏絵はあいつより俺の方が好きだもんな」
「それは――」
「そうだって言えよ。今日は慰めてくれるんだろ」
 彼の手が、あたしの臀部に忍び寄る。
「直接身体に聞いてみようか?」
「……もう、全然へこたれてないじゃない」
「俺のメンタルは奴の分まで頑丈に鈍感にできてるからな」
 傷付けられたり、を担当させられていたジュンはそのためかあまりプライドを見せない。あたしに対してもグイグイ攻めているように見えてその実かなり甘えているし、自身の精神疾患に関することも比較的素直に話す。淳之介は何かあれば潜在意識の奥へ逃げ出すほどガードが固いのに。
「奴の恋人を落として奴の仕事を覚えちまって、このまま俺が主人格として君臨するのも悪くないかな」
 傷付けたり、の相手は専ら淳之介だ。見下した発言ばかりするし、刹那的な生き方は意図して対極を選んでいたように見える。淳之介から寝取った小娘の一言で簡単に切り替えてしまえるんだから。
「そしたら、淳之介はどうなるの?」
 零れ落ちた疑問はジュンの手を止めた。見上げると彼は白い歯を見せ――けれどもいつもより淋しそうに――あたしに笑いかけた。
「そしたら、あいつも俺のこと、何もできない阿呆とは思わなくなるんじゃないかな」
「!」
 もしかしたら、ジュンは無責任に振る舞うことである種の自傷行為をしているのかもしれない。そうして自分を作り出した敦田淳之介という男に復讐しているのかもしれない。

                              <続く>

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