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まずは掲げる 〜“生活者の探究”の探究 Vol.1〜

“生活者の探究”

このnoteは、僕が勝手に名付けた営みについて考え、掲げていくためのものです。

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探究、という言葉をよく聞くようになった。

2020年から小学校(中学校は2021年、高校は2022年)で適応されはじめた新学習指導要領において、「総合的な学習の時間」が「総合的な探究の時間」へと変更されたのが大きなきっかけだったのでは、と思っている。(ちゃんと調べたことはないし、僕が気になり始めたのもここ数年なので、違うかもしれない)

じゃあ、ここで言う“探究”ってなんなんだろう。

学習指導要領では、こう書いてある。

要するに探究とは,物事の本質を自己との関わりで探り見極めようとする一連の知的営みのことである。

「学習指導要領解説 高等学校」PDFより

知的営みかぁ。なるほど。

気になって、他ではどう表現されているのか、いろいろと調べてみた。

「探究」は、物事の真のすがたを探り、見きわめようとすることの意。「真理の探究」「美の探究」「真実の歴史を探究する」

広辞苑より

ごく簡単に言えば「探究」は <「問い」を立てて考える方法>となります。

連載:教育「大人たちのアンラーニング」のススメ 第7回「探究とは何か」

探究とは、不確定な状況を、確定した状況に、すなわちもとの状況の諸要素を一つの統一された全体に変えてしまうほど、状況を構成している区別や関係が確定した状況に、コントロールされ方向付けられた仕方で転化させること

J・デューイ『論理学 探究の理論』
(以前のメモからの引用なので、誤植があるかもしれません)

探究とは、専門性の枠内に閉じ込められない横断的な活動である

探究とは、専門性の枠内に閉じ込められない横断的な活動である
―太刀川英輔さんに聞く創造力の育み方

探究を「物事の本質を明らかにしようとすること」とシンプルに定義した

ピックアップ:「不確実性の時代」に対処する手がかり

手法的な観点なものと、性質的な観点なものが混じってはいるが、どうやら少しずつ異なっている。けど、それはクリティカルな違いというより、その人自身の“こだわり”が反映されたものだと感じた。

じゃあ、僕は探究に対してどんな“こだわり”があるんだろう。

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僕が、探究という言葉に惹かれ始めたきっかけ…があったら良いんだけど、特に劇的な出会いがあったわけじゃない。昨年に少しだけ、中高生向けの探究塾の立ち上げに関わったことはあるけど、その前から興味はあった気がする。

でも、なんとなくのタイミングはわかる。それはきっと、社会人2年目の冬、精神的に体調を崩してから。

社会に馴染めない自分。どうやって生きていけばいいのか。そもそも生きていていいのか。なんで生きているんだろう。生きる意味ってあるのかな。自分ってなんなんだろう。

元々「お前は悩むのが趣味だ」と友達に言われていたから、そういったことを考えるタチではあったんだろうけど、その傾向は確実に加速した。

どんどん気になることが増えていく。

なんで“できる”は偉いんだろう。異なる人と人は分かり合えないのかな。成功ってなんなんだろう。なんで他人の目を気にしてしまうんだろう。居心地のよさってなんなんだろう。

「そんなの考えているから、しんどいんじゃないの?」と何度も言われた。でも、僕にとっては逆で。こういった引っかかりを横に置いて走ろうとしたとき、決まって体調が悪くなる。自分に「考えるのは無駄なんだよ」と声掛けした夜、次の朝に起きれなくなる。

日々を生きていくなかで、心に引っかかったもの。それを見過ごさずに、ちゃんと触ってあげる。

僕にとってこの営みは、忙しない日常のなかで、“他でもない自分”を手放さずにいるために欠かせない営み。

2021年の4月には、こんなことを記していた。(体調を崩して1年半後のこと)

僕は自他ともに認めるほど、人生悩みがちな人間です。「安久都って悩むのが趣味だよね」と友達に言われるくらい。いつか死ぬのになぜ生きるんだろう、と日々悩んでいます。

そこに答えがあるとは思っていない。けれど、答えのない問いを思考するプロセスは大切なんじゃないか、と考えています。

その思考は、その人らしさをあらわすから。

答えを欲しているわけじゃありません。その人らしさが発揮されるような、答えのない問い。それを大切にしていたいと思っています。

25歳の春、軽やかに生きる“実験”へ

この頃には、「すぐに答えがわからない問いを考えることは、その人らしさに繋がる」という想いが生まれていたらしい。

そして“探究”という言葉に、この想いをかざし始めたんだと思う。

だから、いまの僕が“探究”について表現すると、こんな風になるのかもしれない。

探究とは、日常での引っかかりを放り出さずに考えることで、他でもない“自分”として生きるための営み、である。

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あくまでも僕が考えているものだから、ここに正しいだの間違っているだのはない。信念みたいなものだと思う。

その前提のうえで、僕の信念に現れているこだわりを考えてみると、

①日常における引っかかりを扱う
②主眼は社会ではなく“ちっぽけな自分”

の2点になるのでは?と感じた。

日常における引っかかりを扱う

ここでは、あえて“問い”という表現を使っていない。前述のnoteでは問いと書いたけど。

それは、問いって聞くと、急に高尚なものに感じてしまう(気がする)から。もちろん、ワクワクするイメージもあるけど、なんだかつまらないものは出したらダメなのかな…と及び腰になってしまう。

その点、“引っかかり”から受けるイメージは軽やかで。モヤモヤと言ってもいいかもしれない。

そもそも、人間が生きていて、1日24時間を「なににも引っかからずに過ごした」ってことはないんじゃないか、と思う。

同僚に挨拶されなかった・肩がぶつかって舌打ちされた・SNSで嫌なニュースを見た・MTGで発言できなかった・原稿が書けなかった…etc

よくよく考えると、日常は引っかかりでいっぱい。それは、一時的なものに過ぎないかもしれない。多くは、気が付いたら心から取れている。

でも、そのうちの何個かは、心に残り続ける。もしくは、何度も心に引っかかる。

それらは、“問い”という網ではこぼれ落ちてしまうけど、“引っかかり”という網では掬い上げられるんじゃないか。

僕にとっての探究は、日常に紐付くものなんだと思う。

主眼は社会ではなく“ちっぽけな自分”

日常の引っかかり、とも被るけど、別に「社会にどう役立つか」なんて考えなくていい。

考えてもいいけど、考えないといけない…わけでは絶対ないと思う。

探究を進めることで、他でもない“自分”として生きる、に繋がればなんでもいい。

「社会を前進させるための思考」と「自分として生きるための思考」は、わけて考えるべきなんじゃないかな。

重なる部分もあるとは思うけど、後者でしかない思考はたくさんある気がする。

そもそも、最初から社会のことを考えていたら、日常の引っかかりなんて見過ごしてしまう。「もっと大きなところに目を向けなきゃ…!」と焦って、足元の石に気づかずに転んでしまう。

僕にとっての探究は、まずひたすらに、ちっぽけな自分のためのものなんだと思う。

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今年の1月、そんな信念をちょっとだけ開いてみよう、と思って、数人の友人に声を掛けて始めてみた集まりがある。

「はしらずとも」と名付けた集まり。一緒にいろいろ考えたいなぁ・この人は日頃どういうことを考えているんだろう、と気になっていた人たちを誘ってみた。

楽しくなって、ひとりでコンセプトもつくったり

一人ひとりがテーマを持って、それに付随する学びやら思考やら対話やらを進め、分かち合っていく。そんな営みをゆるりと始めてみた。

(ちなみに僕のテーマは「使えないヤツと思われる恐怖…に抗う」にした)

みんなのテーマには、その人らしさが映し出されていて。そのテーマを深堀りするなかでの発見で、その人のことが分かった気になったり、さらに分からなくなったり。

友人たちがどう思っているかはわからないけど、僕自身は、この場を開いてみて「他でもない“自分”として生きている」時間が増えたように感じている。

信念が深まった気がして、なんだか嬉しく思っている。

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…みたいなことを考えたり、やってみたりしているなかで、最近は、もっと“探究そのもの”について想いを馳せたいなと思うようになった。

探究、探究と言ってきたけど、それってなんなんだろう。どういう意味があるんだろう。

現時点での信念は書いた。こだわりもある。けど、満足はしていないし、完全にしっくりもきていないし、見落としている要素もある気がするし。

探究の探究を進めていきたい。

でも、それだとなんだか広すぎる気がする。ワクワクしない。僕が探究したいのは、ただの“探究”なんだっけ…?

ぼやっとそんなことを思って、数ヶ月過ごしていた。そんなある日、ふと思い出した小説があった。

それは、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』。

ピアノコンクールを題材にした小説で、いろんな天才がコンクールに出場する。そのなかで、唯一“天才じゃない人”として描かれるのが高島明石。

明石は、ピアノで食べているわけではなく、楽器屋の店員をして家族を養いながら、コンクールに出場する。肩書きは、一介のサラリーマン。

そんな明石が、物語の冒頭で怒りと疑問を心のなかでつぶやく。

俺はいつも思っていた――孤高の音楽家だけが正しいのか? 音楽のみに生きる者だけが尊敬に値するのか? と。
生活者の音楽は、音楽だけを生業とする者より劣るのだろうか、と。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』p53

生活者の音楽。

「あ、これかもしれない…!」と強く感じた。

探究という言葉をよく聞くようになり、教育だけではなく、ビジネス分野でも広まっている。

不確実な時代を生き延びるために――
自分で考えるチカラをつけるために――
より良く成長するために――

いろんな目的が掲げられ、探究が持ち上げられている。それを否定する気はないけど、僕が惹かれている営みではない気がする。

探究とは、日常での引っかかりを放り出さずに考えることで、他でもない“自分”として生きるための営み、である。

僕にとっての探究。この不完全な信念を、引っ張ってくれる言葉。北極星となる言葉。

それが“生活者の探究”だった。

高尚なものじゃない。壮大なものじゃない。日常の引っかかりをもとにした、ちっぽけな自分のための探究。

まさに“生活者の探究”。

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ここ数週間で名付けた営みだから、まだまだボヤっとしている。この言葉にたどり着いた流れを書こうと、noteの編集画面を開いたはいいものの、この時点で右上の文字数カウンターは“4389“を示している。びっくり。

でも、なんだかじんわりと熱くなるものがある。燃えるような炎じゃなくて、とろ火で身体が暖まっていく感覚。

“生活者の探究“の探究をはじめよう。とろ火だから、煮立つまでは時間がかかるだろうけど。

そんな、ゆったりとした熱が、僕にとっての「他でもない“自分”として生きる」ってことなんだと思う。

焦らずに、それこそ走らずに、進められたらいいな。

“生活者の探究“の探究を。

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