さいたま

風景ばかりの写真を撮っています。 自分のメモとして。レビューサイトでレビューできない本…

さいたま

風景ばかりの写真を撮っています。 自分のメモとして。レビューサイトでレビューできない本とか映画とか。

最近の記事

今日の短歌

きみと聞く 水曜が好き 77.9MHZ 雨、車窓 こどものころの いちじかん 半日みたい えいえんってなに 白鷺と ひとりぼっちの わたしだけ 一緒にすんな ごめん白鷺 年月の 感覚溶けて なくなって 明後日だって もちを焼いてよ

    • 『枯れ葉』-ブルーカラーはつらいよ。-

      カウリスマキの『枯れ葉』はブルーカラーの人々を描いている。 いつものごとく、登場する人たちの顔色は暗く、棒立ち。肉体労働者の決して明るいとは言えないザ・現実みたいなものを描いている。 酔払わないとまともでいられなかったり理不尽な理由で解雇されたり。そりゃそんなしかめっ面にもなるよ。 でもしんどいだけのザ・現実じゃないところがいいところ。ユーモラスな部分もある。真面目な顔して冗談言うひとみたいな面白さがある。(自称)歌のうまい友人がいたり。カラオケに行く下りもそんなに気合入れ

      • 短歌の会ふたたび

        前回からふたたび短歌の会に参加しました。 短歌というものに触れるのはもちろん、人の価値観というか経験そのものに触れる機会になっていて毎回楽しみ。 今回もとてもよかったです。 いろんな人がいらっしゃって人間って色々だなあと当たり前のことを再認識できます。 そして自分の作ったものを深く解釈していただけるのも、作ったものが自分の手を離れていく感じがして広がりがあって楽しいです。 読んだことのある歌集からお題が出ていたけれどすぐに思い付かずもやもや。自分の記憶の頼りなさに少しやき

        • 『ファーストカウ』牛乳の白さにハッとする。

          公開を今か今かと待っていたケリー ライカルトの『ファーストカウ』を見た。 1頭の牛と2人の人間の話。 はじまりから『ウェンディ&ルーシー』を思わせる犬と人。犬と飼い主が2体の白骨死体を見つける。見た後にこの場面を思い出すと映画に広がりがでる。 この後映されるものは彼女と犬が想像した世界なのか?実際に起こったことなのかとか。画面に映されるものの外の世界への広がりがある。 その後2人の男と牛とドーナツを中心に物語が進んでいく。 印象的だったのはフレーム内フレーム。 窓越し

        今日の短歌

          短歌の会

          近所の古本屋さんで毎月開催されているという短歌の会に参加しました。 短歌の会で思ったこと 短歌に惹かれていて半ば飛び込み参加みたいな形で参加しました。 いろんな方がいて、年齢も職業も様々。 短歌の抜けている部分を探したりテーマに沿って短歌を作ってみたり。 見ず知らずのいろんな人の短歌を通してその方がどんな方か見えてくる気がしたのが楽しかったです。 凧の歌、雪の歌、その方自身の構成の歌、ほっこり家族の歌、納まりのいいリズミカルな歌どれもその方の分身のようで素敵でした。 凧の歌

          鬱の本

          ぽつぽつと鬱についての本を読んでいる。 『鬱の本』というタイトルにビビビッときて手にとった。 色々な抑うつ、憂鬱の形がある。 俯瞰してユーモラスに自分を見つめている人。どうしようもないなあ。でも自分だよなあ。 文学や詩のように紡いでいる人。儚く今にも散りそうなサナトリウムで療養してる人みたい。風立ちぬみたいな。ある種のナルシチズム。 哲学的に人生のスパイスのように観察している人。深淵覗いてそう。深淵にも覗かれてそう。鬱の時はニーチェ読まない方がいいらしい。確かにと思って

          私とカウリスマキ

          ちょっと通ぶってみたいというよこしまな気持ちで映画を見ている。 少し前のおろかな私はひどいもので誰も話題にしないような古い映画を見れば通ぶれると信じていた。 そんな愚かな私がセレクトしたのがカウリスマキ。フィンランドの映画監督というところも通ぶりポイント。 実際のところ大衆的ではないというだけどカウリスマキ自体は知名度もあるしそれなりの人が話題にしている。私は無知でおろかなだけだった。でもきっとカウリスマキを面白がれる自分は愚かではない。 みんな棒立ち、無表情、動きもあ

          私とカウリスマキ

          年末から年始まで

          うだうだしながらうだうだと仕事を続けている。 古道具屋をしたいとしたいとくだを巻き、したい理由をできない理由で上書きしてごまかしている。 そんなどうしようもなさから今の仕事もどこかふわふわと地に足がつかない。 これは『まだこの世界には来るな』という超次元的な高次の古道具屋店主なる存在からの天啓なのだと自分に言い聞かせてみる。 すっとんきょうな妄想もここまで来るとハッピーでハートウォーミングでウェルビーイングだな。 よく考えることがよい結果に結びつくとは思わないし早い決断が

          年末から年始まで

          古道具屋をやろうと思う

          古いものの魅力はその物を使っていた人の物語と再現できない時間がそのものに表れているところにあると思う。 きっとそれを手放すことになってしまった理由もある。その人がその道具と紡いで、重ねてきた時間が表れている道具。 道具が持つ物語は直接は見えてこない。でもその古びの美から思い起こさせる物語があるはず。直接は見えてこないけど新たにそれを手に取る人は経験とか思い出とかから物語を見出すこともあるはず。 何かの理由でそれを手放すことになってしまった人と次の人のバトンを渡す役割をし

          古道具屋をやろうと思う

          つながり

          コネクティングザドッツ 関係ない(と思っていた)ことが繋がっていく感覚。久しく感じていない。ぼーっと生きてるからなのかも。 人脈とかイケイケのスタートアップベンチャーみたいでなんか嫌って気がしてた。 でも結局は人との関わりの中で自分を作っていくしかない。 風呂敷広げまくる。サイのツノのように突き進む。 このまま何にもなれずに終わるのは嫌。 区切りをつけたら何も知らない何処かへ行ってみたい。 とにかく今年はつながりをつくる一年に。

          つながり

          また来れますように

          旅先に行った時に神社とかお寺とかにふらっと寄ってみる。 そんなに信心深いわけではないけれど同じお願い事をする。 またここに来れますように。 そうお願いした尾道にまた行くことができた。その時は足を伸ばせなかった四国にも行けた。 きっとまた来れた時には景色は違って見えるかも。 なんとなくそんなことを思いながら飛行機に乗る。また来れたらいいな。 次は違う誰かと違う景色を見るのかもしれない。

          また来れますように

          好きな映画の話

          欠けている映画が好きだ。 人によって面白い映画の判断基準はそれぞれだと思う。 ストーリーだったり映像美だったり動きであったり革新性であったり。 私の場合もどれも面白い映画の判断基準になる。 その判断基準の中で大学時代に読んだゴダールの評論が印象に残っていていまだに判断基準の一つになっている。 自分の受け取り方が違うかもしれないが読んだ評論にはフレームの外側について書いてあった。 小説の行間を読むように映画もフレームの外側を観るということに魅力を感じた。 具体的なビジュアルとし

          好きな映画の話

          自分の中で完結するもの

          映画とか写真とか好きな理由をぼーっと考えてみる。 今までの人生を振り返ってみると何もかもが苦手で人よりできたものはひとつもなかった。 人に見せたり自慢したりが極度に苦手だったなと思う。 苦手というかきっと他人からの評価が怖かった。 でも写真は自分の中で完結できる。 映画が好きな理由もそう。 乱暴に言ってしまえば撮るだけ見るだけで完結する。 映画に関しても写真に関しても自分なりの考えがあるけどきっとそれは人には理解されないし自分でもそれをうまく言語化できないことも

          自分の中で完結するもの

          撮るということ

          少し前私の祖母が体調を崩した。 高血圧による軽い脳卒中。母から連絡を受けて家に帰る道で涙が止まらなかった。 理由はよくわからない。不安からかもう会えなくなってしまうという思いからか。 祖母が回復してからふと、私は人を撮っていないと思った。 人を撮るということに対して躊躇いがあった。 つまらない写真だとか上手に撮れなかったらとか。 そんな不安を人を撮るということはその人を支配する行為だとか自分なりの陳腐な評論めいた言い訳で誤魔化していた。 今も祖母の写真を撮れてい

          撮るということ