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【書評】本を最初から完璧に読もうとしてしまい、結局挫折してしまう人へ――『読んでいない本について堂々と語る方法』

皆さんは、どのように本を読んでいますか。本を開いて1ページ目、題名。目次はサラっと読んで、本文が始まるページまで、スキップ。そして頭から一文一文精読していく。意味内容が分かるまで次の段落には進まない。そんな読み方はしていませんか。そして「読書」とは、そういうものだと思っていませんか。

もう少し批判的に伺いましょう。「読書とは、本を頭から精読していく営みである」と、自分で勝手にハードルを上げて、勝手に苦しんではいませんか。挙句の果てに、途中で挫折して、本棚に何冊も読みかけの本が積まれてはいませんか。

このレポートは、上の問いかけに当てはまる人、つまり「本を最初から完璧に読もうとしてしまい、結局挫折してしまう人」に向けて、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』を紹介させていただくものです。

読んでいない本を堂々と語ってもいいの?

この本、『読んでいない本について堂々と語る方法』は2007年に書かれ、帯には「SNSでも話題沸騰!世界の「読書家」がこっそり読んでいる大ベストセラー!続々重版」と書かれるほどの有名な本です。今、私の手元にあるのも、15版といったところです。でも、どうでしょう。この本の題名を見たら、「読んでいない本なら、堂々と語っちゃダメじゃない?」と素朴に思うのではないでしょうか。また、本の表層(題名と帯文)だけ見ると、まるで時短テクニックを展開する「大衆ビジネス書」のような気がして、読むのを忌避してしまう人もいるのかもしれません。

そこで、このnoteでは、同書の「序」(pp.9-18)の部分を見ていき、「この本が何を意図して書かれているのか」を整理しようと思います。それを基に、この本の誤解を解くとともに、なぜこの本が冒頭で想定した人に必要なのかを論じます。

読んでいない本を語ることを、やましく思ってしまうのはなぜ?

先ほど、誤解を解くと言いましたが、この本は題名の通り、「本を読まずにコメントする」ための本です。もう少し詳しく言うと、「本の読み込み具合、コメントする状況に応じて、どのような心構えでコメントするのがいいのか」が書かれています。そんな中、著者が注目しているのは、「読まずにコメントする」ことについて、何か躊躇いや、やましさが生まれてしまうことです。その原因に対する分析を「序」で行っています。

この「やましさ」の原因は、読書をする上での”規範”であると、バイヤールは言います。また、その規範とは3つあると指摘します。一つ目は「読書義務」。これは、本とは社会の中で高貴なものであり、本は(教養があるものならば)読むべきものとして存在しているということです。この意識の厄介なところは、「本の内容を生半可な気持ちで扱ってはいけない」と思わせるところです。2つ目は「通読義務」。これは、言葉のままで、「本というのは、始めから終わりまで全部読まなければならない」(p.12)というものです。そして最後の規範は、コメントする際の「精読義務」。これは「ある本について多少なりとも正確に語るためには、その本を読んでいなければならない」(p.12)というものです。これらの3つの規範が、「読んでいない本を語る」ことをタブーにさせているというのです。

著者のバイヤールはパリ第八大学の教授をしているのですが、本文中で同僚の大学教授たちを例に出し、この規範がいかにハリボテであるかを明らかにします。バイヤールが言うには、同僚である彼らは、有名な著作に対して、流し読みしかしていないとは言わないが、実際彼らのほとんどはその程度しか読んでいないというのです。つまり、「これらの規範は、人々の内に読書に関する偽善的態度を生み出した」(p.13)ということを暴露しているのです。

しかしバイヤールは、この偽善的態度を「やましさ」とするのではなく、それをむしろ肯定的に捉えること、開き直ることによって見える世界を本書で教えてくれるのです。

読書における「建前」によって隠されている、読書の「内実」

ここで私は、このバイヤールの議論を「建前/本音」という言葉を用いてパラフレーズし、バイヤールの議論を整理しようと思います。ここでの「建前」とは、表向きのルールや規範のことを指し、一方「本音」とは、裏向きの内実のことを指しています。これをバイヤールの同僚の話を当てはめると、「流し読みのレベルでは、その本について語ってはいけない」が「建前」であり、「本音」は、「でも自分は流し読みしかしていない」となります。

このような図式を用いると、冒頭の話に当てはまる人は、「建前」を「本音」にしてしまう誠実な人に多そうな気がします。つまり、「精読している本のみしかコメントせず、精読していない本については、ノーコメントを突き通す」態度です。そういった態度に対して、「建前と本音を一旦分けよう!」と、バイヤールは言いたかったのかもしれません。

一点注意ですが、今回の議論は、別に本は読まなくてもいいということではありません。必要に応じて精読する必要はあります。しかし、だからと言って「すべて精読しなければ、その本についてコメントしてはならない」というわけでもないことが重要です。つまり、そのバランスの話、読みの「濃淡」の話をしているのです。

また、これは「結局これは、人間の惰性の話だよね。」というわけではありません。そうではなく、現実行われている「読書」という営みからして、つねにすでにそうであるしかないのです。例えば、同書には、このような文章があります。

「読んでいない」という概念は、「読んだ」と「読んでいない」とをはっきり区別できるということを前提にしているが、テクストと出会いというものは、往々にして、両者の間に位置づけられるものなのである。(p.14)

これは、蔵書を持つ人にとっては誰もがうなずけることではないでしょうか。その人たちにとって蔵書とは、「一冊一冊、読み重ねたもの」ではなく、「同時並行的に読んでいて、色んな読みの段階の本の集まり」だと推察します。そう、実はこの本はそういった我々の読書ライフのリアリティ(内実)に沿っているのです。「建前/本音」という言葉を用いれば、この本は「建前」で隠されてしまう、読書の「内実(本音)」を教えてくれている、とも言えそうです。

結び

 最後ですが、「建前」とは「これは建前である」と言わないことに意味があります。しかし、「建前」を建前だと知らずにいると、大きな損をすることがあります。今回で言えば、「最初から最後まで精読していないと、ある本に対してコメントしてはいけない」ことを真に受けしまい、精読義務を自分に課してしまうことが、それにあたります。そういった意味で、冒頭にあげた「本を最初から完璧に読もうとしてしまい、結局挫折してしまう人」とは、被害者なのかもしれません。勝手に被害者呼ばわりしてしまいましたが、もしそんな状況に悩んでいられたら、この本、『読んでいない本について堂々と語る方法』を読んでみませんか。読書の内実を知ることによって、本との付き合い方も変わり、今後何かを論じていく際、思考や論の引用の仕方が変わってくるかもしれません。皆さんの豊かな読書ライフを応援しております。

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