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ガザ地区空爆に想う

最近になって、図書館で借りた立山良司の著作を通じて、19世紀末からユダヤ人差別に伴うユダヤ人国家の提唱がなされてシオニズムと呼ばれる運動が始まったことを知った。

1896年ウィーンで、テオドール・ヘルツル(1860.5.2-1904.7.3)が記した「ユダヤ人国家」を端に発してユダヤ人国家を建国するシオニズム運動が始まった…と、考えられている様だ。ヘルツルがこの著作を記すにあたってはドレフェス事件(1894)に衝撃を覚えたことがあった様だ。

極東国際軍事裁判で戦犯として処刑された広田弘毅(1878.2.14-1948.12.23)は、三国干渉(1895.4.23)に衝撃を受けて外交官を目指したそうだが、ドレフェス事件はフランス軍砲兵大尉に軍事機密漏洩の容疑がかけられて、ドレフェスに有利な条件があったにも関わらず、ユダヤ人であったために軍法会議で有罪にされた事件であったらいしい。ヘルツルはこの事件取材する記者であった。

その後、第一次世界大戦の勃発後に、英仏間で秘密条約(サイクス・ピコ条約1916.5)、英アラブ間でアラブの独立を宣言する協定(フセイン・マクマホン協定1916.6)が結ばれたのち、英国外相が「英国政府はパレスチナにイスラエルのナショナルホームを設立することを支持する」旨の矛盾する約束(バルフォア宣言1917.11.2)が取り交わされた。

1918年11月ドイツが降伏して第一次世界大戦が終結すると、1919年パリで、1920年サン・レモ(仏国境近くのイタリアの都市)で講和会議が開かれ、1920年4月にサン・レモ会議で英仏間の合意に基づきパレスチナは英国の委任統治が認められ、1922年7月国際連盟理事会がこれを追認した。約100年前のことになる。

メッカの太守フセインは、その三男が1918年ダマサスカスに入城し抵抗したが、仏の勢力には太刀打ちできず、二男は1921年3月ヨルダンのアンマンに入り、英国植民地相ウィンストン・チャーチルが提案した妥協策を受け入れ、トランス・ヨルダン首長国の初代首長となって、1922年国際連盟理事会がパレスチナに関する委任統治規約を採択し、ヨルダン川東岸はパレスチナから切り離されることになった。

パレスチナは英国統治領として、約100年前に今日に至る形を取り始めた。日本では1921月11月4日首相の原敬が東京駅で暗殺され、高橋是清内閣の下で11月25日に裕仁親王の摂政宮就任が行なわれた。第一次世界対戦の敗戦国ドイツで、1933年1月30日ヒトラーがドイツ国の首相に就任すると、翌年8月2日にヒトラーを首相に任命したヒンデンブルク大統領の死去に伴い「総統」を名乗ってヒトラーは独裁者となってゆく。1939年9月1日ポーランドへの侵攻と共に、第二次世界大戦が始まり、ユダヤ人のホロコーストも、ヒトラーが首相に就任した2ヶ月後、3月20日にミュンヘンの北西のダッハウに強制収容所第一号が誕生して始まった。

ユダヤ人の死亡者は600万人に登ったと伝わる。日本の戦死者の約倍に当たる。戦争終結後、英国は1947年2月パレスチナの問題を国際連合に委ねる宣言をした。1945年6月26日サンフランシスコで国連憲章は調印され、10月24日に51カ国が加盟して発足していた。1956年12月18日に日本は80番目の加盟国となっている。東西ドイツは1973年9月18日に加盟国となり、1990年10月3日にドイツ連邦共和国として一つに統一されている。韓国と北朝鮮は1991年9月18日に第46回国連総会で、159カ国の全会一致で加盟が承認された。

さて、パレスチナは英国統治領から1947年11月にアラブとユダヤの国に分割することが、国連総会で賛成33、反対13、棄権10で採択され、敗戦国日本で日本国憲法が公布・施行される中、パレスチナはユダヤ人とパレスチナ人とで分割されることになった。1948年5月14日英国の統治委任期間が終了したことに伴って、イスラエルの独立が宣言された。そして中東戦争が始まりを告げる。パレスチナは1988年11月国連分割決議に基づき独立を宣言する。パレスチナにおけるインティファーダ(武力蜂起)も、この頃から始まった。先月のハマスのイスラエルに対する軍事力行使は、肯定できるものではないが、この35年の経過の果てに起こり、1993年8月30日のオスロ合意調印の後、イスラエル首相のイツハク・ラビン(1922.3.1-1995.11.4)とパレスチナ解放機構のヤセル・アラファト(1929.8.24-2004.11.11)に翌年ノーベル平和賞が与えられ、1995年11月4日首相在任中にラビンが暗殺されるに至った。原敬の東京駅での暗殺からちょうど74年後に当たる。

ベンヤミン・ネタニヤフ(1949.10.21-)の様な、犯罪者としての容疑もある人物がイスラエルで首相に就くのはそのラビンの死後になる。米国大統領の仲介で成立したオスロ合意は、脆くも崩れ、ガザ地区では地獄絵の様な状況が広がっている。日本でも、2014年7月1日閣議決定がなされ、それを憲法違反と明言する憲法学者は存在するものの、戦争放棄を唱えた憲法の下で集団的自衛権の行使が可能となる奇妙な状況に陥っている。

集団的自衛権は、国連憲章に記されたもので、国連の安保理決議に基づかねば行使はなされることはない性質がある。日本政府は国連改革の前に、国民に憲法改定に基づく集団的自衛権の行使が可能となる様な議論を慎重に重ねる必要があるのだろうと思う。容易に可能ではないが、国連憲章との整合性の下で、自衛隊が国連の平和維持軍として加わることができる様な国連中心の安保体制へ、日米安保の破棄と共に踏み出すことを検討するバラダムシフトが求められている様に想う。無論、あくまでも戦争放棄の前提としてという矛盾を伴うものとはなるだろうが…。

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