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noteの読みたい記事・読みたくない記事の話

 もしかしたらこれは僕自身がSNSではTwitterを頻繁に使うタイプの人間だからそう思うことなのかもしれないけど、このnoteという媒体の中に存在する無数のクリエイターによる無数の記事は『読みたい記事』と『読みたくない記事』とで明確に分かれていて、なおかつ『読みたい記事』を書く人はずっと『読みたくなる記事』しか投稿しないし、『読みたくない記事』を書く人はずっと『読みたくならない記事』しか投稿しないという見解を持っている。ただこれは僕自身の嗜好がすべてなので、この記事そのものが話半分のものになってしまうことは否めない。正しいわけじゃないので、気にしないで。

それ面白い?


 たとえば毎日更新を目的にした『ただ文字が書いてあるだけの記事』は読みたくないし、流し見をすることはあれど基本的に読まない。
 もしもこれが毎日更新の『日記』であれば、その人の人間性が内容と共に文中に現れていて、目で追うだけでも面白いと感じるから読むことが多いのだけれど、明らかにその人の『個人的な取り組み』が目的になっているだけの中身のない掌編小説だったり手短な報告文だけだったりすると、申し訳ないが大体どれも微塵も面白くない。ごく稀に普通に文才に感動させてくれるクリエイターさんがいてくださるから、全てがそうとは思わないんだけど。

 あとは『noteの書き方講座』みたいなものも読みたくない。SNSやサービスの使い方についてのマニュアルのようなものや、それらの傾向についてお勉強的な意味合いでまとめられた記事があることは完全に理解できるのだけれど、自分がそれを読みたいかと言われたら全然読みたくない。
 あれらは実際にその内容に沿うことで記事のアクセスを増やしたり、note上でのコミュニティを上手く使えたりするメリットが得られるものだとは思うんだけど、僕はたとえそういったメリットがなくても人間がその内側から吐き出した文章の記事が読みたいし、それだけを面白いと思う。
 これが『noteの書き方』ではなく『小説の書き方』や『エッセイの書き方』であればまた話が違って面白いと思うことが多々あるけれど、SNSの使い方についてとなるとやはり面白くない。

 講座的なものでよく言われる『読みやすさ』というものについても懐疑的。面白さと読みやすさに全くの相関がないとは言い切れないけど、個人的には読みにくくて面白い文章というのは、読みやすくてつまらない文章より読みやすい。面白いと思えば次の文字や次の行や次の段落まで簡単にたどり着けるので、そもそも技術なんてものは礼儀程度しか要らないんですよねっていうのが僕の意見。主観だけど。

 完全に創作作品として文章で誰かを楽しませようとしている長編小説であったり、その人の思想のようなものをキャラクターに喋らせた短編小説であったり、社会に対する不満をぶちまけたエッセイであったり、何かを考えて結論を出すような考察だったり、クリエイター自身の体験談であったり、そういったものは大体面白い。個人的にその内容が好きかどうかという評価はあれど、記事そのものに中身があるからどんなものでも面白いし読みたいと感じることができる。

 僕がフォローしているクリエイターさんには特に文章に起承転結も取り入れずにただ思ってることをつらつらと書いているだけの方もいるけど、それもかなり面白いと思っているし楽しんで読ませていただいている。何故ならその内容はその人が普段思っていること、感じていることを吐き出したもので、文章そのものに人間の温度のようなものを感じるから。

 たとえば。短い文章だけど、お風呂を沸かしたけどお湯が熱すぎたというエピソードがあったとする。

①今日は久々に湯船に浸かろうと思ってお湯を張った。しかし温度設定を間違えて47度で沸かしてしまったようで、入るまでそれに全く気が付かなかった。信じられないくらい熱かった。今後は気を付けようと思う。

②死ぬかと思った。寒くなってきたから今日は湯船にでも浸かろうかと思って久々にお湯を張ったんだけど、あまりにも久々に沸かすもんだから設定のことを完全に忘れてて47度になってたことに気付かなかった。普段と6度程度しか違わないのになんだこの差は。二度と湯船なんか浸かるか。

文字数の差はさておき当然②のほうが面白いと思うんだけど、ハッキリ言ってnoteには①のような文章がめちゃくちゃ多い。事実の羅列は記号と同じにしか捉えることができなくて、読み応えというものがまるでない。そしてそれをよしとしているクリエイターの記事は大体全部それでよしとされていて、つまらない。文章に自我がないから。


セルフプロデュースという概念


 どうせ書くならば多くの人に見てもらいたい。そう思うのは物書きとしては当然のことだし、noteという媒体を使って何かを書くならばその手法がいくらかあるから自分でやってしまおうというのも理解できる。ビューやスキの数で確認すればわかることだけど、とにかく拡散することは本当に効果がある。

 ただ、一番のセルフプロデュースというのはやはり『面白いものを書く』ことであって、これが何より大事で何より効果があって、何よりもまずこれがなくてはならない。これができなければいくらアクセスがつこうが『つまらない』ものでしかない。なのにあまりこれをわかっていない人たちが多いから、これだけ好き勝手に文章を書ける媒体であるにもかかわらず『相互アカウント』のようなフォロワー数に着目しすぎたアカウントがあるんだろうなと思う。

 僕はと言えば、フォロワーを増やしたいんじゃなくて自分の書いた文章を面白いと思ってもらいたいだけなので、その界隈のことは思惑ごと全く理解できない。もちろん人の目に触れる機会が増えるのは嬉しいことなので、SNS的な側面を利用していきたいと思う一面も持ってはいるけれど、それにのみ傾倒するアカウントでありたくはないし、そんな時間があるならばまずは文章に向き合いたい。クリエイターページから過去記事を読んだら面白くて、あれもこれも読んでみたいと思いながら読んでいたら時間を潰せていた、読者にとってそんな筆者でありたいわけで。



短編小説の内容で思うこと


 noteの短編小説タグがついているものって、否定はしないけど『一人称視点の謎小説』があまりにも多すぎる気がする。中には詩的な表現が上手すぎて思わず秒でスキしたくなるような記事はあるし、単純に内容が面白いものもたくさんあるけど、殆どはモノローグとなる地の文で筆者が言いたいことを言っているだけか、状況描写に無駄に時間をかけているだけの作品だなという印象を受けて、そこにキャラクターがいないから『これだったらエッセイで書き殴った方が完成度高くなるのに』と思わせてくる。語り部が筆者のスピーカーになるなら地の文が邪魔になるだけなので小説じゃなくていいよね。

 正直これについてはフィクションであり創作であって、設けられた枠組みがあるわけでもないからどんなものを書こうが自由だとは思ってる。本当に好みの話なので誰も気にしないで欲しいとい
うのが本音。僕が言いたいだけ。
 だけど、面白いかそうでないかには趣味嗜好以前のコンテンツとしての土台の出来が確実に影響すると思うので、そこをしっかりクリアしている作品はやはり面白いなと感じるし、多分ここは一般的に文才と呼ばれる部分とは別の、極めてロジカルなものだとも思うので、きっと面白いものを書こうと思いながら書いてる人は自然とそれをクリアしていると思う。


じゃあお前は面白いものを書けよな


 そう言われたら本当にぐうの音も出ない。本記事の批判的な部分は結果的に自分に向けられるものであると思うので、ちゃんと面白くなるようにこれからもnoteを書いていこうと思う。

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