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感動は言葉で伝えよう と思った話

タイのパーイという田舎町に半月ほど滞在した。カフェで演奏させてもらったり、現地の人と仲良くなったりして思いがけず長居してしまったのだけれど、そこで私史上かなり上位にくるくらいにハッとさせられた嬉しい出来事があった。


ある日、私はとある小さなカフェで演奏することになった。そこは現地のサックス奏者さんが教えてくれた場所で、その彼と一緒に即興セッション的な、ゆるーいパフォーマンスをすることになったのだ。

こじんまりした店内に10人くらいのお客さん。欧米からの旅行者さんが多くて、ただただまったりしてる人、文章を書いている人もいたりして、それぞれ思い思いに時間を過ごしていた。

その日の演奏はすごくリラックスしていて、いい感じに力が抜けて心地よかった。お互い特に何も考えず、ただ流れに身をまかせる感じで、世の中にある曲、ない曲を弾いていた。こんな真っさらな即興セッション、これが出来る人と出会えることも貴重だし、何より初めてのことだったからから単純に楽しかった。


次の日、泊まっているホステルで目を覚まして、ロビーで朝の身支度をしていると、どこかで見覚えのある顔が近づいてきた。

彼女は昨日カフェにいたお客さんのひとりだった。

「あれ、同じホステルに泊まってたんだね」なんて話をしたら、どうやら彼女は昨日のうちに気づいていたみたいで、そしてわざわざ私に声をかけに来てくれたようだった。



「昨日の演奏は本当に良かった。本当に感動したの。」

「私は自分のためにエッセイを書きながら旅をしているんだけど、すごくインスピレーションを受けて、貴方のおかげで本当にいい文章が書けたの。ありがとう」


彼女は感極まって、目を赤くして涙目になりながら話してくれた。
実際、その気迫に少し圧倒されるくらいだった。

私は今までこんなにストレートに感動を伝えてもらった事がなかったので、実際ちょっと戸惑った。でも同時に、ものすごく嬉しかった。なんとかしてこの嬉しい気持ちを伝えなきゃいけないと思って、拙い英語を振りまわしてがんばった。

そして思った。
言葉の威力はこれほどすごいものなのか と
こんなにも嬉しいものなのかと。こんなにも心に残るものなのかと驚愕した。

私は今まで、感動を伝えることの威力を知らなかったのだなと思った。
日本で日本人として育つと、感動をストレートに伝えることには抵抗があるというか、何となく恥ずかしさを感じてしまうというのはよくある事のような気がする。大袈裟なんじゃないかとか、変に思われるんじゃないかとか、いいと思っているのは私だけじゃないだろうかとか、何だかよくわからない諸々の感情が枷になる。心の中では思っていても、表現するのはためらわれる、そんな思いを持つ人が多いだろう。私も多分そうだ。でもそんなのをすっ飛ばしてありのままにぶつけてくれる、その心が嬉しかった。

この出来事を反芻するだけでもう何年かは元気でいられるくらい嬉しかった。実際、どうしようもなく自分に自信が無くなった時には思い出して、勝手に救われたりしている。多分ずっと忘れることはないだろう、それくらい心に残るものだった。

彼女に会ってから私は、感動は言葉で伝えよう と思うようになった。もちろんそれは当たり前のことなのだけど、より強くそう思うようになった。いいと思ったらいいと言おう。それはどんな小さなことでも。その服似合ってるね とか、あなたのその考え方いいね とか、どんなことでもいいのだ。言われた方はたぶん悪い気はしないし、時にそれが大きな力になったりもする。それに今こうやって直接面と向かって「会えている」という状況は、忘れがちだけど実はとっても貴重なこと。せっかくこうして会えているんだから、せっかくだから直接伝えたい。そうじゃないと勿体無い、だって目の前に居るんだから。そうやってポジティブな循環を作っていきたい。

彼女はとても綺麗な顔をしていて、美しい人だな と思った。
素直で繊細そうな笑顔を浮かべる彼女は、多分その優しさで人を救うことも多いのだろうけど、でも同時に、その繊細さ故に傷つくことも多かったんだろうなと思ってしまうような(これは憶測でしかないのだけれど)そう思わせるような綺麗な人だった。

私はそんな人にどうしようもなくシンパシーを感じてしまって、どうかその繊細な心のままに生きていけますようにと、勝手に願ったりしている。





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