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頑張らない日記を書いている。

 日々の努力とか、毎日のルーチンとか・・・そういうことが苦手。
 歯を磨く・お風呂に入る・顔を洗うなどの生活する上で必要最低限のことはともかく、毎朝走る・毎晩ストレッチしてから寝る・毎日勉強するといった、自分を律しそして成長していくために必要な自己啓発的なことを長続きさせることがめっぽう苦手科目だ。

 「頑張らなきゃ」とか、「毎日しなきゃ」みたいなことを思って考えるほど、反対勢力の億劫が脳内面積を陣取り、続かなくなる質なのだ。筋金入りのぐうたら人間というわけ。
 アラフォーという妙齢な年齢に差し掛かってからは、なんとかぐうたら精神を治したいと思って、ちょっとデキテルオンナが読んでそうな自己啓発本を買ってみたり、NHKの英語講座で勉強をするぞと勉強するためのグッズを揃え、会社帰りに運動をしようとジムの会員になったりと、それなりに自己投資をしてきたわけだけれども、、、投資額が増えるばかりでもう数年近く経過・・・。ぐうたらに効く特効薬があれば、ぜひ処方してもらいたいくらいだ。

 そんな私は昨年の9月末からゆるりと日記をつけている。頑張って毎日書かない日記を。

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 日記。それは広辞苑によると・・・

 ”日々の出来事や感想を書いた記録”

 といった意味合いだ。つまり、毎日書くということが前提なのが「日記」、なのだけれども「毎日書かなきゃ!」と思うと、私のやる気の反対勢力の億劫さんに支配されるのが成れの果て。これまでの経験だと、たいてい三日坊主、よくて1週間くらいしか続かないのが私の通常運転。だから、頑張らない日記をつけることを始めた、ということだ。

 いま、私が時々書いている日記帳は1996年に母に買ってもらったもで、最近、部屋の本棚を整理している時に偶然見つけた。日記は4ヶ月ほど書いたところで終っており、中途半端な状態だった。
  そんな状態の昔の日記をながめていたら、なんとなくその日記帳を完成させたくなって、大人になった自分が続ける形で毎日ではない日記を書き始めめたのだ。

 それは、家族と過ごした元旦を振り返るところから書き始められている。よっぽど日記帳を買ってもらったことが嬉しかったのだろう、記念すべき最初のページにバーコードシールまで丁寧に飾られている。
 当時、私はまだ10代で青春ど真ん中だった。ただ私が記憶しているあの頃は、いわゆるいじめターゲットな学生で、学校には友達という友達は存在しなく、没頭していた乗馬でも所属していたクラブでも、どことなく浮いた存在で隅っこに追いやられている女の子だった。

 見つけた時、そんな記憶をしている過去を過ごした自分はどんなことを考えていたんだろうと、自分の日記なのに他人の日記を盗み見しているような気色悪い感覚をかんじながらパラパラとめくった。ちょっぴり後ろめたいモゾモゾ感を感じながら、昔の自分と日記で対峙した。

 自分のことをいじめていたあの子の名前や、その子の名前が出てきて、悪口とか悲しかったとかネガティブなことが書かれていると予測していたけれども、むしろ『〇〇ちゃん偶然に会って楽しかった』、とか、『今日は久しぶりに馬に乗れて楽しかった』とか、そんなことばかりが綴られていて、自分のことなのに予想外で拍子抜けした。
 何もなかった日は何もなかったで、『寒くて手が死にそうになった』とか、『暖かくてラッキーだった』といった他愛もないことが、ほのぼのと記されている。

 ただ、その日記は受験生という立場に変化したところで途切れ始める。当時の私は、思うように成績が上がらないことに苦悩していたようだ。『自分は努力ができない人間だ』という自己嫌悪を書き留め、そこからの続きは書くことはなく、今の年齢まできている。

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 少女だった時に書いていた日記。昔の私は、いじめられていた事実を乗り越えるために楽しいと思ったことを大切にし、それを日記帳の中の罫線上に楽しく感じれた部分だけを書き出すことで毎日を10代なりに乗り越えていたんだと思った。だけれども、いじめのような外的要因ではなく、自己嫌悪のような内的要因によるいわゆる”辛さ”を味わい始めた時に、日記から遠ざかっている。

 自分は、自分のダメなところを直視するのが苦手なんだと悟った。それは、大人になった今もちっとも成長していない部分だな・・・と心の痛いところをチリチリと刺すように感じた。

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 偶然棚から現れた過去の日記帳は、もう一度何かを書け、と静かに訴えかけているような気持ちに私をさせた。何を書くべきかなのかは、あまりピンとキていなかったが、思うがままに日記帳にペンを走らせた。

 大人の私は、なんとツマラナイ生き物なんだろうと思った。ブラックホールかと思うくらいの自己嫌悪や自己否定、不平不満を表現する言葉や文脈しか出てこない。苦笑いしてしまったのが、過去の自分が記した悩みと今の悩が全く同じでだったこと。まったく魂を成長させていないことを、まんまと自身で証明してしまった・・・(苦笑)。

 ダメな自分を日記とは言えども、さらけ出すのは気持ちの良いものではない。書き終えたあとは、爽快感とは逆にあるような気持ち悪い感情を残した。10代の私はダメな自分に目を逸らし、そしてそのままで今の私まで来てしまった。目を逸らした状態が私の生き方になっている気がした。
 だからこそ、今度こそダメな自分と正面から向き合い、自分のモヤモヤした霧の中を歩いてみようと、自然と思えた。

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 気が向いたとき、というより仕事の悶々や自分自身へのモヤモヤイライラ。言葉にできていない心の鬱憤が貯まってきたとき、素直に言葉にならないまま罫線上にぶつけている。
 鬱憤貯蓄がいい感じに満タンになったら書く。そんなことを2ヶ月ほど繰り返したときに、少し自分の頭の中に変化があることに気がついた。

 不満があることを不満だと日記には素直に飾らない自分で書き留めることで自分の何かが昇華され、かすかだが霧がふわっと流れ、霞の向こう、つまり自分なりの解がわずかに見える瞬間があるのだ。
 友人などに愚痴をいったり相談したりした時に得られるのは方向性だったり考え方までで、自分のモヤモヤを晴らす場所の方向は理解できたが具体的に自分がどうやったら、その場所にたどり着けるのかが分からずじまいで、結局のところ靄が吹き飛ばず気持ち悪さを引きずってしまう、といったことが私の場合は往々にしてある。
 しかし、日記帳という場所に飾らない自分を投影してみること、どこか自分の足野裏で大地を感じれるような一歩を踏めた感覚を感じれるのだ。

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 10代の私から、思わぬ日記帳をもらった今の私。書きながら、大人になっても、私全然大人になってないよ、、、ごめん。と、日記を書くたびに申し訳なく思っている。

 10年後の私が、この日記を見た時にどう思うのだろうか。やっぱ自分成長してないじゃん、と思うのだろうか。なんとなくだが、そう思うのだと予測できる。
 でも、あのころ悩んでくれていたから今の自分があるんだなと、1mmくらいは思わせたい。人間が持っている時間は「今」しかないと。「過去」にも「未来」にも行けないのだ。未来を作れるのは「今」の自分しかいない。

 毎日少しだけ「今」を大切にして、悩み成長してみよう。

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