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「かあさん!もういちど、僕を、にんしんしてください」 : 身毒丸

寺山修司による戯曲『身毒丸』

「男は女や女の穴が好きなんじゃのうて、通じとる地獄が好きなんじゃろう」

岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』

寺山修司による戯曲『身毒丸』は、しんとく丸と名付けられた少年が、見世物小屋によって買われた母・なでしことの関係性に苦悩する、その様子を見せ物小屋的な・おどろおどろしい演出をもってして表現している。

ラスト、崩壊した家庭の中で、しんとくはなでしこと向き合う。その最中に彼がこぼした「お母さん!もういちど、ぼくをにんしんしてください」という号哭は、この作品を象徴するものである。

——鬼子母神は、自らの子を愛し、慈しむ一方で、他人の子を攫っては食らう、二面性の強い神である。そんな鬼子母神の経文が流れる中、なでしこはしんとくを、頭から食べてしまう。この結末は、なでしこという鬼子母神にとって、しんとくは所詮『他人』でしかなかったということを示している。

何故、なでしことしんとくは親子になれなかったのか。——それはしんとくとなでしこの間に、血縁関係がなかったからに他ならない。しんとくは、なでしこの“穴”を、そこに通ずる地獄を知らない。

岸田理生による戯曲『身毒丸』

岸田理生による戯曲『身毒丸』は、上に挙げた寺山修司版を下敷きに、ある程度の改訂を加えたものである。藤原竜也のデビュー作にして、蜷川幸雄監督の代表作『身毒丸』の戯曲ということで、ご存知の方も多いのではないだろうか。

この岸田理生版『身毒丸』は、寺山修司版とは打って変わって、「母子相姦」あるいは「オイディプス・コンプレックス」を主題に置いている。
つまり、岸田理生版の『身毒丸』において、しんとくがなでしこを受け入れられないのは、記憶の面影にある「母」の肖像と、なでしこの実像とがあまりに食い違っていることだけではなく、しんとくにとってなでしこが「女」であったから、これに他ならない。
しかし、しんとくの父によって課せられた、母と息子という役割のために、彼は、自らの衝動、あるいは感情を押し殺している。そんな板挟みの日々を窮屈に感じているのは、しんとくだけではない。なでしこもまた、役割からの解放、あるいは日常の崩壊を望んでいる。

ラスト、なでしことしんとくは、互いの体をひしと抱き締め、闇の中へと消えていく。課せられた「役割」から逃れるために。

中野玲子『武田信治・身毒丸』

中野玲子『武田信治・身毒丸』は、95年に、武田信治主演で上演された蜷川幸雄『身毒丸』のノベライズである。ストーリーラインや演出は、岸田理生版『身毒丸』と変わらない。つまり、この作品もしんとくとなでしこ、母と息子という役割を強いられたもの同士の禁じられた恋を描いたものだと言える。

ただ、特筆すべき点は、ラストである。
ラスト、なでしこは大蛇のように、しんとくまるを頭から食べてしまう。鬼子母神への言及はない。巻末に掲載されている、武田信治氏のエッセイを窺い見るに、これは胎内回帰を示しているものと思われる。

岸田理生版『身毒丸』のラストにおいて、家庭が崩壊したことで、役割から解放されたふたりが、「男」と「女」として生きていくことを描写したのに対し、こちらの作品においてふたりは、「母」と「息子」という役割を演じるため、為すべきことを為している。家庭は、彼らに役割を強いたものは、すでに崩壊しているのにも関わらず。

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