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あいつらが簡単にやっちまう30回のセックスよりも - トレイン・スポッティング -

あいつらが簡単にやっちまう30回のセックスよりも「グミ・チョコレート・パイン」を青春時代に1回読むってことの方が僕にとっては価値があるのさ

(銀杏BOYZ『十七歳(…cutie girls don't love me and punk.)』より)

あらすじ

「未来を選べ」


スコットランドで暮らすヘロイン中毒の若者、レントンの人生は、停滞していた。友人で映画オタクのシック・ボーイやスパッドとともにヘロインに溺れる日々。

違法薬物の類はやらない“まとも”な友人トミーの制作した自家製ポルノ(いわゆるハメ撮り)を鑑賞し、「自分に足りないのは異性との関係だ」と思い立ったレントンは、クラブでひとりの少女をナンパする。彼女がまだ学生の身分であり、彼女と肉体関係を持つことは犯罪にあたるということを、レイトンが知ったのは、翌朝のことだった。

そういったままならない日々への不満・犯罪者になることへの不安から、レントンと仲間たちはヘロインをさらに摂取する。そんなある日のことだった——レントンの友人・アリソンのまだ幼い子供が死んだのは。その日アリソンは泣き喚いていた、しかしレントンをはじめ仲間たちは誰も気に留めなかった。

罪悪感から自暴自棄になったレントンと仲間たちは、ますますヘロインに依存していく。ヘロインを手に入れるため、万引きや強盗などといった他の犯罪にも手を染めるようになるが——。

感想

厭世的で利己的で刹那的な若者の、人生の一部を切り取り、映画にした作品という意味では、『時計じかけのオレンジ』と似ているのかななどと思ったけれど、『時計じかけのオレンジ』と本作品では、何かが決定的に異なっている。
『時計じかけのオレンジ』の主人公、アレックスには彼なりの美学があり、哲学があり、打算があり、計算がある。これに対し『トレイン・スポッティング』のレイトンに、そういったものがあるかと言えば、そうではない。レイトンの反社会的行為は、苦痛や不安に溢れた1日を乗り切ることを目的としているのに対し、アレックスの非行は——。
この差は、どのようなところから生じるのか。

「豊かな人生なんて興味ない。理由か?理由はない。ヘロインだけがある」という台詞は、序盤のレイトンが持つ、唯物論的な世界観を表現している。自身の手の中にあるものだけ。自らの意識を持って——その実在を証明できるものだけを、ただひとつの真実として受け入れる。子どもというのは、須くして、そんな「唯物論的な世界観」のもとで暮らしている。世界の複雑さを知り、こういった眼差しを失うことを、人は「成長」と呼ぶ。

ラスト、レイトンが「豊かな人生の象徴」(として、彼が捉えているもの)の名前を次々に挙げていく構図は、ファイト・クラブを思わせた。「破滅的なホモ・ソーシャル」を描いたものとして、この2作は共通しているのだけれど、ファイト・クラブが物質至上主義からの脱却を促しているのに対し、トレイン・スポッティングは、唯物論的な世界観を持ち、破滅的な人生を送っていた青年が、そこから脱却し、物質至上主義に足を踏み入れるという物語になっている。つまり、『ファイト・クラブ』と『トレイン・スポッティング』は、要素要素こそ酷似しているが、むしろ、正反対の物語だと言える。

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