見出し画像

悪魔でもなく、ましては天使でもない、ただの人間-映画「月」について-

2016年に発生した「相模原障がい者施設殺傷事件」を、皆さんはご存知だろうか。当記事は、それをモデルに製作されたとしている映画「月」の何が問題であるかを論ずるとともに、本作に対する社会の反応から、「障がい者差別」の実態について述べたものである。

本編を観ないまま、批判を行うことに対しては少しばかり躊躇があったのだが、昨今の流れの中に、(当事者として)どうしても看過できないものがあったので、筆を取った。どうかご容赦いただきたい。

まず、本作のモデルとなった「相模原障がい者施設殺傷事件」がどのようなものであったかを振り返ろうと思う。
2016年7月26日未明、神奈川県の知的障がい者支援施設「津久井やまゆり園」に、同施設の元職員である植松聖(うえまつさとし)が侵入——持ち込んだ刃物によって、当時施設に居た入居者の中から、19人を殺傷したというなんとも痛ましい事件が世間に与えた衝撃は、記憶に新しい。

植松聖は、被害者たちを「心失者(※植松聖の造語である)」であるとし、彼らは「周囲の人間を不幸にする」ため、犯行に及んだのだと供述した。

かつて植松聖が津久井やまゆり園の職員であったことから「彼は、障害者と長期的に関わることで人間性を歪められた被害者なのだ」と捉える人も少なくない。恐らくは、「月」の制作陣もそのような解釈で、当作を制作したのだろうと思われる。

(そもそも、特定の属性と関わりを持つことで、人間性を歪められるという言論自体、極めて乱暴で、極めて差別的であるということはさておき)しかしながら植松聖が「施設での勤務経験」だけを理由に優生思想を口にしているのかというと、そうではない。少なくとも彼は裁判において、小学生の頃には既に、当時の友人とそのような内容の議論を交わしたをこと、ひいてはそこで話した内容をもとに作文を書いて発表したことを供述している。

つまり、彼が語った「施設内で虐待を目撃した」「入浴の際、溺れかけていた入所者を助けたのにも関わらず、家族からは感謝の言葉ひとつなかった」などといったエピソードは、とうに、彼の心の中に存在していた確信を深める要因に過ぎない。

植松聖が犯行に実行したのには、利益至上主義が大きく関わっているのではないかと筆者は考えた。ここでいう利益至上主義というのは、マジョリティの利益に繋がるのであれば、それが例え非道徳的な行為だとしても、推奨すべきだと考える主義 / 思想のことである。「老人集団自決論」を唱えている、社会学者の成田祐輔氏などがわかりやすい例なのではないかと思う。

アメリカ第一主義の名の下に移民や難民の排斥を行ったドナルド・トランプ氏が人々の賛同を集める姿は記憶に新しい。低い自己肯定感をもつ植松聖にとって、トランプ氏を取り巻く支援者、並びに彼らがトランプ氏に浴びせかける賛美の言葉は何より輝かしいものとして映ったのだろう。

現に、ダウン症の娘を持つ当事者という立場から植松聖と手紙のやり取りを行い、実際に面会もした社会学者の最首悟氏は、植松の犯行について「ある程度の層から賛同を得られそうな相手なら、対象は誰でもよかったのではないか」とを語っている。

つまり、植松聖が口にする優生思想は(おそらくは、彼自身もそれを自覚してはいないのだろうが)賛同を得るためのパフォーマンスに過ぎないと言える。

彼の起こした事件をモデルにして、作品を制作するにあたって、そのような側面は無視できないはずだ。しかしながら劇中にそのような描写は一切見受けられない。植松聖をモデルにしてると思われるキャラクターについても「心優しい青年だった」として描かれるのみだ。これは事件に対して、何より、事件で命を落とした人たちに対して不誠実なことだと思う。

またこの映画は、障がい者を徹底的に「自分たち(=いわゆる健常者)とは根本的に異なる存在」として描いている。

話すこともできない、用便すらままならない。そのような障がい者の現実に目を背けたまま、彼らを生かし続けるのは単なる偽善ではないか?——製作陣は本作を通して、そのような問題提起がしたいのではないかと思う。

しかしながら、作中で描かれる「障がい者の現実」とは実際のそれとは大きく乖離している。過度に誇張した——言い換えるならば、製作陣によって捏造された「現実」を、あたかもファクトであるかのように扱うのは、偏見を深める行為に他ならない。

また私は、植松聖の提起する(そしてこの映画の根底を支えている)「心失者」という概念に対しても、非常に懐疑的である。植松聖は、当時やまゆり園に居た入居者を「意思の疎通が取れるか否か(=自身の名前、年齢、住所を言えるか)」で選別したと供述している。しかしながら、発語のないカナー症候群(ASD,自閉スペクトラム障害の一種)の当事者や、精神遅滞があり、自らの住所や年齢が言えない当事者に「意思」がないかと言われれば、そうではないことは容易に理解できるだろう。

幻冬舎より出版されている神奈川新聞取材班の「やまゆり園事件」という書籍では、植松聖の被害者たち、裁判ですら実名を伏せられた彼らがどのような人たちだったか、どのようなものを好んでいたかが、一人一人丁寧に記載されている。「ラジオを解体してはまた組み立てるのが好きだった」「ディズニーの話をするのが好きだった、いつか一緒にディズニーランドに行きたかった」……etc。

彼らは紛れもなく“人間”だった。意思があり、心があった。真に問題提起するべきことがあるとすれば、それは、単なる人間に過ぎない彼らを、異化し、あまつさえ排斥しようとする、その傲慢さを扱うべきだと私は感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?