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子どもの名前に願いをこめない

小学校で「あなたの名前の由来をお父さんお母さんに聞いてみてください」という授業があるらしい。(それを聞くたび、お父さんお母さんがいない人はどうするんだろうとか、意味があまりにも破滅的だったらどうするんだろうとビクビクする)

かくいうわたしは、むすめの名前にあまり意味を込めなかった。後付けで「こういう意味ってことにしようか?」とオットと話したので後付の意味はあるけど、基本的には意味をこめなかった。願いを込めたくなかったからだ。どんな願いも、親のエゴだと思った。一方的にわたしが彼女に願いを込めるのはあまりに重いと思った。彼女の幸せは彼女が決めるんだし、彼女の人生は彼女のものだし。23歳当時のわたしは、そんなふうに思っていた。

一方で、彼女と過ごすようになって8年経って思うのは、「わたし」という存在は想像以上に彼女の生活にインパクトを与えているということだ。悲しいほどに影響力が大きい。わたしはまず自分が疲れないようにすること、体調を崩さないようにすることに責任を持つようになり、自分の心の安定に責任を持つようになり、彼女の話を聞き彼女の存在を全面的に肯定することに心を寄せるようになり、彼女が彼女のよさを潰されずに生きていく環境を整えることに力をかけるようになった。

「彼女の人生は彼女のものである」はまさに自明の理で、基本的な前提なんだけど、一方で、そのロジックですべてを彼女に委ねるには彼女は幼すぎるという現実も横たわっている。バランスだ。過剰に関わって一人の人の人生を侵害してもだめだし、かかわらなさすぎて放置しても枯れてしまう。一ヶ月前は手をかけていたことを、今は手放すことだってある。都度彼女の変化に応じて自分の関わりを手放していく。

今から思うと、子どもの名前に願いを込めなかったのは、責任逃れというか、「覚悟足りてないなアンタ」と自分にツッコミをいれたくなる。覚悟決めろや、といいたくなる。でもいいか。彼女とともにわたしも成長させてもらったし、今でも私のエゴを彼女に押し付けたくないと思ってるんだ。エゴを込めたくなかった、ということ自体が、当時のわたしの覚悟だったんだろう。


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