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『自分』、『自ら』の【自】という漢字は、もともと人の【鼻】を意味する漢字でした。
この【自】は、東洋人が身振り手振りで自分のことを表す際に、人差し指を自分の鼻に突き立てて示すことから、【鼻】の象形文字である【自】が、マイセルフ【自分】を表すようになったのだそうです。
その後、【自】がもっぱら自分という意味で使われるようになったので、身体の【鼻】という意味を明確に表すために【自】に『ヒ』という音符を加え【鼻】という漢字が新しく作られたのだといいます。

【鼻】は顔の真ん中にあり、たしかにその形状、高さで、美形か否かが左右されます。残念ながら、私は団子鼻です(笑)

中学生のときは、あと5ミリ鼻が高ければよかったのに、と壊れかけの洗濯ばさみ(新品だと痛くて使えない。)で痛くならないようガーゼのハンカチの上から鼻を挟んで寝てみたりしましたが、ある時、父とその祖母も同じ団子鼻だと気付いてからは、あまり気にならなくなりました(笑)

さて、【鼻】とくれば、芥川龍之介の小説「鼻」が有名です。

高僧である禅智内供は、シラノ・ド・ベルジュラックもびっくりする長い鼻の持ち主で、あまりの長さに、食事のときは弟子に鼻が口を塞がぬように持っていてもらう程でした。
彼は何とかして鼻を短くしようとします。そして、何回かの奮闘後、遂に鼻を短くすることが出来ます。そのとき彼は云うのです。【もう誰も笑わないだろう】と。
しかし意に反して、鼻が短くなった彼を周囲はくすくす笑います。禅智内供は、また、そのことで苦しみます。
しばらくして、どうしたことか、あんなに苦労して短くした鼻が、自然と元に戻ってしまいました。そこで彼はほっとしてまた云うのです。【もう誰も笑わないだろう】と。

この有名な本の解釈は、様々な方々が読み解いておられます。仏教に絡めた解釈もあります。
私は、厳しい修行を経て選ばれた高僧である禅智内供であっても、他人にどうみられているのか周囲の人間の反応を気にしてしまう心があること、
そして、折角、整形し美しくしたとしても、今度は自分が内面ではなく外見の醜美にとらわれている人間とされたようで、また苦しんでしまうところが、人間くさく共感しています。

そして秀逸だなと思うのが、彼の台詞【もう誰も笑わないだろう】です。
周囲からよく思われたい、高い評価を得たいというのは、集団で生活してきた人間の本能的、生理的渇望です。
容姿がおかしいことを取り繕うほどに気にしてること、外見と内面に対し嘲笑されたことに対して同じ台詞【もう誰も笑わないだろう】とあるのが凄い!!

冒頭で【鼻】は、【自ら】をあらわす文字であったと述べました。鼻は、顔面の中で最も突出しているところであり、物事の始まりを『鼻』で表すこともあります。中国では、ある流派の始まりを【鼻祖】というのもその一例です。

芥川龍之介がこの話の構想を錬ったときに禅智内供の頭髪や手足、お腹などではなく顔の真ん中にある【鼻】にしたことが、なんともにくい。

マスク生活が長引くにつれ、マスクを外した顔を見せるのが恥ずかしいとマスクを外したがらない人々も出てきました。
自分を象徴するといえば大袈裟ですが、顔の印象を左右する鼻(鼻から下)を隠したマスクを付けることは、自分を隠すベールを一枚身に纏うようです。私も外したくないという気持ちが分かります。
マスクを外した顔を見せるのは、心理的距離を縮めますねという表現ともいえそうです。

マスク装着の現在であれば、芥川龍之介は何を題材とし展開させるのか、タイムマシンがあれば聞いてみたいです。





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