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一人称は簡単か?

※武田綾乃氏のファンには心証を害するおそれのあるエントリーです。

武田綾乃さんの著作『されなくても別に』の無料公開されている部分だけを読んで、「一人称小説は簡単」という話がなんとなく分かったので書いてみます。

武田綾乃さんに敬意を表して言います。                おまえの文章を一言で表すなら、クソだ(注1)。

あれはひどいですね。吉川英治文学新人賞を受賞した作品とのことですが、講談社が「売らんかな精神」を発動させたのかと疑いたくなります。そりゃあ『響け!ユーフォニアム』の作家さんが書いたのですから話題性は十分でしょう。それに、もう一人の受賞者のこともありますし。

ただまあ、「売らんかな精神」は別にどうでもいいんです。別世界のひとたちのことを言っても仕方がないですから。それに、こういう「シード権」を持ってるひとたちが、小説の市場を大きくしていますからね。私から見れば、こういうひとたちは宇宙人なので気にはしていません。

でも、さすがに基本がなってないのはアカンでしょ。これはラノベみたいな小説ですよ。ああいう文体はラノベだからいいのであって、エンタメ小説、そしてまがりなりにも武田さんご本人が純文学っぽいって言っている小説でこれはいかんでしょう。

何が駄目か。それは一人称の使い方ですよ。

よく文章の書き方指南サイトで「一人称小説を書くのは簡単だ」とよく言われます。確かに、『愛されなくても別に』のように都合良く一人称を使えば、それはそれは簡単でしょう。

しかし、本当に一人称を書くとなれば、これほど難しいものはありません。私はその難しさを知っているので一人称を書きません。二人称も最初は難しいですが、一人称の奥深さを考えればそこまでではありません。

一人称小説の難しいところ。それは100%主観で語らなければならないということです。ですので、常識で考えればおかしいのではないかと思えることも恐れず書く必要があります。

昨年の太宰治賞を受賞された、山家望さんの『birth』を例に挙げます。この小説では「私」の思い込みでストーリーが動いたり、「私」がおかしな感受性を出したりします。一見、これは小説としてつたなく思えますが、「私」の主観を大事にする筆致である限り、正しい技術といえます。

それに一人称小説は主観で語るわけですから、信頼できすぎる語り手だと話がつまらなくなります。なんでそんなに客観的なの? って思いますね。

武田綾乃さんの小説に出てくる「私」は感情的なくせに、自己分析がかなり客観的なんです。情報がよく整理されていて、読んでいて納得がいく。いや、いきすぎるんですよ。それが、すごく不自然でしたね。

別の登場人物を突き合わせて(字はこれで合ってます)少しずつ主人公のパーソナリティを伝えないと、小説世界に入れませんね。いきなりいろいろいわれても、というやつです。まあ、これは三人称小説でも言えることですが。

それはともかく、冷静な自己分析を理路整然とした性格の人間が言うなら分かるんですよ。でも、この小説に出てくる「私」にそんな感じはありません。なのに、最初から立て板に水で話されると、主人公の女子大生ってこんな性格だったっけ? って疑いの目を持ちますね。

一人称小説の場合、作家は「私」になりきらないといけない。そこを律するのが難しいんです。案の定、ラノベ出身作家の武田綾乃さんにはできていない。

小説に出てくる「私」を武田綾乃さんが操っている。作家さんの影が見えちゃってるんですよ。これでは一人称小説とは言えません。一人称の形式を借りた三人称小説ですね(注2)。

こういう下手くそな一人称小説もどきを「文章がうまい」などと評する人々には驚きを禁じ得ません。本当によい小説を読んでいるのでしょうか? それとも、素晴らしい物語が何であるかを知らないのか? こういう質の低い小説が再生産されるとなると、残念ながら日本の物語のクリエイションに未来はないでしょう。

そうなっても、自分は小説を書き続けるので別に構いません。最近の刑事ものドラマが好きでないひとには『バビロン・ベルリン』があります。ドラマが多チャンネル化したように物語もそうなります。

自分は別のチャンネルをつくるだけ。それが『バビロン・ベルリン』のように評されればいいだけのことです。


【追記】

『愛されなくても別に』ですが、新自由主義批判とかジェンダーの話とかいろいろてんこ盛りですけど、テーマを軽く扱いすぎなんじゃないですかね。テーマを一つに絞れない時点で社会を描く自信がないんでしょう。

最近は社会問題をさらりと入れたら社会的な作品とか純文学だという空気がありすぎて、本当にうんざりです。ひとつの社会問題にどんなレイヤーが横たわっているのかをはっきりさせるのが、本当の意味で社会的な小説だと思います。

ツイッターを読んでますと、なにやら社会学が馬鹿にされています。まあ、社会学者が馬鹿を言ってるからというのはしゃあないです。でも、誰でも眉をひそめる社会問題に少し首を突っ込んだだけで訳知り顔で社会を語るひとたちによって、社会学が無価値に扱われるのは腹が立ちます。

社会学って、学問だと思われていないのでしょうか?



注1:『愛されなくても別に』の最初のほうにある文章がベースになっています。

注2:遠野遥さんの『破局』も芥川賞の選評でそんな風にいわれてました。一人称の形式を取った三人称小説。言い換えれば、固有名詞を「私」に置き換えただけの「なんちゃって一人称小説」なんですね。ただ、遠野さんの主人公のパーソナリティからして「アリ」なんですが。だから、選考委員から“あえて”下手を打っていると判断されたわけです。

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