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笹塚のおでん

20代の終わり頃、笹塚に住んでいたことがある。

東京近郊じゃないひとのために説明しておくと、笹塚というのは、新宿から京王線で数駅の、渋谷区と杉並区とのさかい目にある、どちらかというと下町感が優勢な街だ。リリー・フランキーさんの『東京タワー』も、この街が舞台になっている。

そのころぼくは、駅からのびる商店街を抜けた小さな部屋で、一人暮らしをしていた。よく自炊をしていて、つくるものはパスタやオムレツなどの洋食が多かった。たぶん、村上春樹さんの小説に影響されていたんだと思う。村上さんの小説の主人公は、失恋をしたあとには、だいたいパスタをゆでている。

その商店街には八百屋、魚屋、肉屋、酒屋がそろっていて、値段感は下町レベルなんだけど、どこも品質のレベルが異様に高かった。おいしいカレー屋としゃれた喫茶店もあったし、小ぎれいなイタリアンレストランもあった。いま考えても、あそこは理想的な商店街だと思う。

商店街のはずれに、愛川屋という練り物の専門店があった。ショーケースを見ていると、おばちゃんが声をかけてくれて、名物の紅生姜揚げをひとつくれた。できたてで、ひどくおいしい。棚の中には、ちくわやごぼう巻き、はんぺんやこんにゃくもある。

おでんをつくろう、と思った。ひとそろいの材料と、大根だけは八百屋で買って、大きな鍋いっぱいにおでんをつくってみた。いちど煮こぼした旬のだいこんと、愛川屋の練り物でつくったおでんは、予想以上においしくて、びびった。その時のぼくの、心と体に染み入る味だった。

あれから15年くらいたって、もう笹塚には住んでいないのだけれど、愛川屋はちゃんとあって、いまでもたまにおでん種を買いに行く。この時期になると「最後のおでん」をそろそろつくらねばといつも思う。来週末は行けるかな。

3月1日の朝、古賀史健さんたちの企画「同時日記」に初参加

#同時日記 #おでん

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