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過ぎていく時について

大正の最後の年に生まれたおじいちゃんは、横須賀の南の方の家に一人で住んでいる。

お正月、長女の旦那(義理の息子)であるところのうちの父が行くと、棚の奥から古い、重いお酒を2本出して来て、「俺はもう長くないし、これお前が持って帰れ」と言った。たぶんもう十年以上もそこにあったやつだ。

父はそれを皆が集まる叔母宅に持ち帰った。それは誰かから貰ったもので、古く、重く、父もそこにいた誰もが飲まないタイプの、強い海外のお酒だった。誰かが言った、「中身を捨てて、おじいちゃんにみつからないようにビンをゴミに出す」という台詞で、このお酒のことは忘れられた。

帰り、おじいちゃんが、「お前、あのお酒持ったか」と聞いた。
父はうん、とうなずきウソをついた。

ご飯を食べたあと、もうすぐ3歳になる上の子が、持っていたリモコンをぶつけて、ガラス戸のガラスにヒビを入れた。大人はみんなびっくりし、私は謝り、まだ事の重大さを理解せずへらへらと笑う上の子を叱り、謝りなさい、と促した。上の子はなかなか謝らず、納得できないというように私を睨み、そして長いこと口を曲げて我慢した末、泣いた。

悪気はもちろんない、大好きなリモコンの新しいやつを見つけて嬉しくて手を振り上げただけ、思いのほか強く当たった、当たりどころが悪かっただけ、という状況から考えても、そこが自分の家だったら私は怒らなかったと思う。
しかし外(社会)では、親は親としての責任を表明しなければいけないこともある。上の子はよく考える子どもなので、自分が今ここまで私に怒られるのは納得がいかない、でも私が親として果たそうとしている役割までは理解できないというところで、戸惑い、理不尽さを感じ、悔しくて泣いたのだと思う。

そのあと、少しの間ぽてんと放心して私の膝に座っていた上の子を見て、おじいちゃんが「あのガラスがもろいんだよ。ビニール袋とおんなじで、お日様のあたるところはばりばりになって、砕けやすくなるんだ」という話しをしてくれた。それが正しいかどうかは別に、どこまでも子どもの味方でいようとしてくれる気持ちが嬉しかった。

娘も、孫も全員女だったので、おじいちゃんにとってはずっと欲しかった男の子だった。昔、上の子と一緒に撮った写真を居間に飾って、毎日寝る前に見ておやすみと言っているのだと言う。毎回、おばあさんが生きていたら喜んだだろうなといって泣く。そんな気持ちを息子たちは分からず、おじいちゃんには懐かず、今回は家が怖いと言って泣いた。

そういえば、おじいちゃんは今年も、私の二人の息子にお菓子の福袋を買って来てくれた。喜ぶと思って自転車で京急ストアまでいって、元旦早々重くてかさばるものを買ってきたのだ。でもそのお菓子の袋には、小さな子どもたちが食べれるようなものはほとんど入っていない(じゃがりことかハイチュウとか)。そうでなくても御泊まりセットに子ども二人つれて大荷物なのに、とても持って帰れる大きさでもない。おじいちゃんはそこまで考えていなくて、ただ、私が小さくてまだおじいちゃんの家に正月泊まっていた時、これを買って来たら喜んで食べていた事を覚えていて、買い続けているのだ。

年を経ると、色んなことが変わる。
家の前には大きな駐車場があった。それはもうない。
小さな頃はよく上がった二階には、もう10年近く上っていない。
正月は大きなちゃぶ台を二つ並べて、皆で集まって正月の御馳走を食べた。
それももうない。

人には人の生活があり、家族でも親から離れればそこに新しい人生がある。世代間の感覚の隔たりも大きい。正月は、寒くて、使い勝手が悪いおじいちゃんの家には集まらず、目の前にある叔母の家に集まる。おじいちゃんは毎回説得されて仕方なく叔母の家に来るけれど、絶対に長居をしない。

仕方のないことなのかもしれないし、私には前みたいにしようよ、という発言が出来たとしても、それを実行する力はない。近くに住む叔母や長女である私の母が相談してセッティングしたことに乗っかるだけだ。毎日、もしくは年中会って介護をしている上記の二人と違い、私はたまにしか会わない人間だから、こうして感傷的なことを思うのだろう。

それでもやはり年を経て変わったことを寂しく思う。
相手を思ってやったのに、期待していた結果にならなくなってしまうことを、切ないなと思ってしまう。

すれ違いや、誰かとの溝を作らないためには、いつも相手の事を思いながら誠実に対応するのが一番だけど、そんなことを常にできるほど出来た人間がどれくらいいるのだろう。


花秀さんのこと


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