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おしまいがはじまりを

こんにちは、研究員の冨永です。
先週の田中さんの記事の最後に出てきた
『今夜はおしまい』ってなんだろう?と思って検索してみました。

最初にヒットしたのは
浅川マキという歌手の曲名でした。
「今夜はおしまいもう店じまい」という歌い出しで始まるようです。
Youtubeで動画も視聴しました。
ジャンルはブルースになるのでしょうか。

ウィスキーをロックでちびちび飲みながら
ボーッと聴きたいような曲でした。

気になって、調べて、聴いて、少し考えて。
その後、この記事を書き始めました。

僕がずっと浅川マキさんの曲を聴き続けなかったように
何かを始めれば、どこかでおしまいがやってきます。
何かが終わると、一瞬できた空白の間の中に
次の何かが入り込んできます。
今回の僕の場合で言うと、この記事を書くという行為が
浅川マキさんの曲に想いを巡らす、という行為のおしまいの
直後に入り込んできたわけです。

何かが終わったままになるということは
生きている限りはありえなくて
何かが終われば何かが始まります。
空白や沈黙が時間を支配することもありますが
それもいつかは終わって、何かが始まります。
世界が続く限り、完全な「無」はやってきませんから。

この文章がどこへ辿り着くのだろうと思いながら
1行、1行、また1行と綴っています。
前の1行が終わりになる時、次の1行が呼び込まれるように
僕の指を動かしていきます。
何かの終わりは、何かの始まりを呼び込みます。
そこにいくばくかの空白が、それが長いことも短いこともあるにせよ
生まれた後には、次の1行が生まれ育っていきます。

今書いている1行が終わっていく瞬間を丁寧に受け止め味わう時
ごく自然に、次の1行が生まれてくるように感じます。
そう感じながら、この1行を書いています。

「おしまい」に特別な意味を与える前に
「おしまい」そのものを受け止めること。
それは、「はじまり」の予兆を感じ取るために
必要なことのように思えます。

冨永良史(Safeology研究所研究員/発創デザイン研究室代表)

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