見出し画像

ひとつの世界

こんにちは、冨永です。
田中さんの「河原に並んで座る二人」の描写を読んでいたら
京都市の真ん中を流れる鴨川の河川敷のことを思い出しました。

京都市は僕が学生時代を過ごした街です。
その真ん中に鴨川が流れています。
河川敷では、さまざまな人が思い思いの過ごし方をしていました。
走る人、散歩する人、演奏する人、読書する人、恋を睦み合う人たち、などなど。

夕暮れの頃から次第に、河川敷にはカップルの比率が高くなってきます。
かの有名な「鴨川等間隔の法則」が実証されるのはこの時です。
これは、河川敷に腰を下ろすカップルは必ず等間隔になる、という法則です。

僕もその一点を占めていたことがあったとか、なかったとか。。。
それはさておき、今回、話題にしたいのは
「目の前に何があるかは、果たしてどの程度、確実にわかるのか」です。

河川敷に座るカップルの目の前には
夕暮れを映しながらサラサラと流れる鴨川があるはず、ですが。
果たしてそれは、確実に言えることなのでしょうか。
科学的に測定すれば、河川の広さや流れの速さや明るさは証明できるでしょう。
しかしそれは、本当に、そのように存在しているのでしょうか。

それは、科学的な測定者にとって、そのように存在するのであって
そこで甘いひと時を過ごしているカップルにとっては
また別のありようを示しているはずです。
中には、泣きながら別れ話をしているカップルもいるかもしれません。
そのような人たちの目前にある鴨川もまた、別の様相を見せているでしょう。

通常、このような違いは「主観と客観の違い」として解釈されます。
しかし果たして、客観的事実とは、本当にあり得るのでしょうか。
あるいは、それぞれの現実を生きる当事者にとって
どの程度、有効なのでしょうか。

ひとりで散歩する時に眺める河川敷と
恋人と語らいながら見つめる河川敷は
客観的には同じだと言えますが、当事者にとっては別の何かでしょう。

あるいは、幼児が眺める河川敷と、100歳の長老が眺める河川敷は
客観的には同じスピードで流れながら、違った流れに見えるかもしれません。
なぜなら、生きてきた時間の長さが違うから。
幼児が過去を振り返る時、そこにあるのは数年の時間。
その数年の経験を頼りに、目の前の流れを感じます。
長老が過去を振り返る時、そこにあるのは100年の時間。
だから、100年の時の流れを物差しに、川の流れを感じます。

このように考える時
私たちの目の前にある世界のありようは
果たして、確実にひとつに定め得るのでしょうか。

確実にひとつに定め得る世界を求める時
人間の歴史を振り返ると、多くの場合、不幸な衝突がありました。
そして現在もあります。
宗教の、イデオロギーの、経済的利害の、衝突が。。。
確かなひとつを求めつつ、他のひとつを認められない時
私たちは衝突し、相手を押し潰そうとすのではないでしょうか。

世界のありようが、確実なひとつに定められるならば
もしそれが可能なら、私たちは安心できるかもしれません。
しかし、それが成し遂げられた形跡は人類史にはなさそうです。

であるならば、私たちが安心してこの世界を生きるには
ひとつの世界を欲するのではなく
さまざまな世界のありようが存在することを認めつつ
それらの世界の出会いと重なりの上に
常に、新たな世界を生み出し得る、と考えることが
有効ではないかと思います。

それが、ファシリテーターである僕の
いまのところの、世界への眼差しです。

冨永良史(発創デザイン研究室代表/safeology研究所研究員)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?