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近所を福の神が歩いていた。

正月二日。
用事の合間、近所に散歩に出かけた。ここは手形山の縁。少し行けば森林の空気を吸える良いところだが、昨年の記録的な水害と記録的な猛暑に続いて、秋には記録的な熊の出没。山方面を散策する気分にならなかったが、今は真冬だ。熊は冬眠した、、、はずだ。

坂道をウネウネと登ると、地元の氏子さんしか行かないような小さな神社にさしかかる。若宮八幡宮という。その境内の脇に、爺さんが独り座っているのが見えた。おや、あの爺さんは、、、 “あの爺さまん ではないか!

“あの爺さん” とは──

去年の春のこと、私はやはり散歩のためにこの坂を登っていた。と、前方を、独りの爺さんが歩いていた。

弱々しい両足の代わりに、両手にスキーのストックをしっかりと持ち、ゆっくりと、坂道をついて歩いていた。
どこへ行くのだろう。ただの散歩だろうか。しかしこの坂は年寄りにはかなりキツい。この爺さんにとっては登山だ。どこかへ行くのならてっぺんまで行かないと、この先には民家もない。

爺さんが今にもへばってしまうのではないか。だんだん心配になってくる。その後ろ姿を見ながら、心の中に、何か悲壮なものが込み上げてきた。そしてあっという間に追いついてしまい、会釈をし、追い越した。

追い越したはいいが、私は散歩をしているのであり、どこへ行くわけでもなく山のてっぺんまで来て、ウロウロ、ウロウロ、さらにウロウロして、戻ってきた。

すると、道の途中に設えてある切り株ベンチのひとつに、爺さんは座っていた。背負っていたリュックから何か飲み物を取り出して、ゆっくり、ゆっくり、飲んでいた。
私はまた会釈をし、通り過ぎた。

通り過ぎたはいいが、どうにも気になって何度か振り返り、爺さんを見た。飲み物を飲みながら、どこを見るでもなくぼんやり前の方を眺め、座っていた。

何度か振り返った後で、今度は立ち止まって爺さんを眺めた。

そして、さっきまで抱いていた、この爺さんへの悲壮感をすっかり捨てた。

目的地があるわけではない。
どこにも向かわない。
何かのための何か、ではない。
ただ歩いている。飲んでいる。眺めている。休息している。
それらが、それぞれに完結している。
それは本当の意味での歩行、本当の意味での飲食、本当の意味での休息、なのではないか。

あの爺さんの動きは、そう思わせられる。
私もいつか婆さんになったら、あのように散歩がしたい。時間を気にしながらの休息ではない、本当の意味での散歩、休息がしたい。
悲壮感と入れ替わりに、安心が胸に拡がっていった──


その、“あの爺さん” に、数か月ぶりに会ったのだ。
そして私が神社で柏手を打っている間に、爺さんは歩き出し、坂を下りていく。

その時、
私の中でひとつの感応が起こり、爺さんの後を追った。
あっという間に追いついて話しかけた。「あけましておめでとうございます」。

そして以前にもお見かけしたことと、自分も婆さんになったら、、、と、その時に思ったことを話した。

「いやっ、どうもどうも!」
爺さんはニッと笑った。

真正面から見てみると、その顔はかなり面長だった。ニッと口を真横にしてもなお、顔は縦に長かった。
見ているうちに、七福神の福禄寿を連想した。

旺文社の国語辞典に載っている「七福神」の挿絵。いちばん左が福禄寿

そのスキーのストックは、木の杖ではないのか。
そのニット帽を取ったら、頭はツルツルなのではないのか。
そのリュックには、よく絵で見るように大きな桃が入っているのではないか。

聞けば、爺さんは足のリハビリのためにこうして歩いており、途中で何度か休みながら、坂の上にいるお地蔵さんまで行って、引き返して来るのだそうだ。リハビリのため、とは言いながら、

「ここはいいよぉ!気持ちいい!」

さらにニカッと笑った。もう福禄寿にしか見えない。というか、この爺さんを通して福禄寿が透けて見えてくる気がする。
その口から、鼻の穴から耳の孔から、目孔から、福の神のお目出度い芳香が、漏れて漂ってくるのだった。

別れ際、私はうっかり、「よいお年を」と言ってしまった。
新年早々なんという間違いを、と思ったのだが、あながちそうでもないかもしれない。何しろこの福禄寿翁に会ったのは去年が初めてで一度きり。この日は二度目なのだ。お互い近所に住んでいるはずなのに。だから今年中に会うのも、もうこれで最後のような気がするのだ。

福禄寿翁と別れてからも、気分がよかった。
私は福の神から、何かを授かったかもしれない。
それは分かりやすい物質的な「福」や「禄」や「寿」ではないかもしれないが、確かに何かを。

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