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大人になるっていうことは

ミニマムな暮らしよりも
好きなものに囲まれて暮らしたい派である。

でも自分ではない誰かと暮らしてると、好きとはいい難い、日に日に増えていく物物物のオンパレード。

子どもの持ち帰る学校、園からのプリント類、石ころ、虫の羽、お子様セットのちゃちいおもちゃ、どでかい段ボール工作、
夫の前職、前前職、現職の仕事道具(夫は捨てられない人)etc

時々疲れていると、物のない空間が欲しくなる。
茶碗一つ買うにも吟味し、好きなものだけに囲まれた一人暮らしの頃は快適そのものだった。

私は人と暮らすことが向いていないのかもしれない。と思う時がある。

実家で暮らしていた子どもの頃〜18歳頃は常に何らかの不自由さや生きづらさがあった。 

離婚前は両親の不仲、離婚後は母がつくるゴミ屋敷のような空間で一人部屋ももらえないこと、極度に質素な食事、必要なもの(生理用品、下着)が買ってもらえないことが、かなり辛かった。
目に見える虐待はなかったが、どこか家庭のなかで存在を認められていない感覚があり、集団に溶け込んだり、そこでがんばるようなエネルギーが全く湧かなかった。
小学校の6年間は丸々不登校、高校はなんとか卒業できたが学校を休みがちだった。

19歳で家を出てからは、母から逃れ違う世界を見たいと思い、日本のあちこち(富士山の山小屋から、沖縄の離島まで)で住み込みで働いた後、東京に戻り一人暮らしを始めた。

バイトを掛け持ちしても税金、年金、奨学金の返済をするともうすっからかんだったが、がらんとした部屋で私は幸せだった。

その後、古道具屋に転職してからは収入も安定し、素敵な暮らしぶりの同僚たちに感化され、私の暮らしもどんどん豊かになっていった。

結婚して、猫たちが加わり、マイホームも手に入れ、子どもにも恵まれた。

家族と過ごす日々はとても楽しくて、有難いものだと思う。

だけど、家族を持ってから時々、言い様のない生きづらさが復活していることにも気づく。

家族が増えるということは、幸せと引き換えに不自由さが増えるということでもある。

年齢もあがり、付き合う人や外側が“ちゃんとして”きたぶん、内面の変わらない“社会不適合者”な部分を表に出せなくなってきた。

独身の頃は、仕事、付き合う人、休日の過ごし方、全て自分で自由に選ぶことができたし、まわりにもゆるく生きてる人が多かったため、欠点も、弱さも包み隠さず、社会と繋がって生きられた。
それは私にとって嘘がなく楽だった。

でもこの頃は、自分の一存では選べない人間関係、地域の活動、幼稚園や学校の役員、など“親として”の役割を担うことが増え、仕事も“自分のしたいこと”ではなく、家族のバランスのなかで“できること”という前提の上で選ばざるを得なくなった。 

いつの間にか“まっとうな大人”を演じようとする自分に疲れ、ボロが出まくるようになってきた。楽しくないし、そもそもまっとうな大人じゃないから無理がある。

今日は住んでいる団地の理事会で、慣れない司会をやるはめになり、準備はしたがボロボロで、本当にがっつりとうちのめされ、自己嫌悪に陥った。でも1年は辞められないという憂鬱。


“そういうものだから仕方ない”
“やらなきゃいけないから我慢する”

と、何かを受け入れたことってこれまでの人生であったっけな。

みんなは早いうちに小学校でそういう気持ちと折り合いをつけるのかなと、文句を言いながらも宿題を欠かさない息子を見ていて思う。
子どもなのに大人だな、、偉すぎるよ、、たまにはサボってもいいのに、、と。

けれど私も今さらながら、“やらなければならないこと”に向き合う覚悟をした。

といっても、避けて通れないことを、どんどん引き受け、場数を踏んだり努力で克服するような方向性は無理だろう。それができたら初めから困ってない。

私に残された道は、断り力や、大失敗しても水に流せる“まいっか”力を鍛える道なんだろうな。要は、図々しくなるということ。

人が一生のうちで、自分のことに集中できる時間て実はすごく短いのではないか。

私が自分の人生を、自分だけのために謳歌したのは、親の下を離れた19歳から、家族を持つ25歳までの6年間だったんだと気づく。

子どもたちにとってこの家は、子どもにしたら不要なルールや気に入らないこともたくさんあるだろう。

でも、できるだけ、衣食住は不自由なく満たして、自分の遊びや好きなことにエネルギーを注いでほしい。自分の興味や関心事に集中して生きる時間を長くもってほしい。

その想いを軸に今私の生活はまわっている。

不自由さを受け入れるのは、自己犠牲のような部分もあるけど、子どものためというよりは、私がしてほしかったことをしたい。嫌だったことは子どもにしたくないという想いに基づいてる。

子育ては本当に、その人その人、違って、自分の子ども時代が蘇り、さまざまな感情を味わいつつ、選択して、間違って、軌道修正して、自分も変化していく。なんと根気のいる、答えのない仕事だろうと思う。

精一杯やっても、成長した子どもから堪え難かったと言われることもあるかもしれない。
それは百も承知で、とにかく自分のいまできる最善を尽くすしかない。

人ってまっとうな子ども時代を過ごして初めて、まっとうな大人になれるのかもしれない。

私も子どもたちと一緒に、馬鹿みたいなことでたくさん笑って、遊びまくって、自分の中の子どもをもう一度育て直したい。

今日はお風呂の前に、雨の中息子と縄跳びをして気持ち良かった。
滝行とかしてみたい。

家族がいれば大丈夫。
ここは安心できる場所だから、、

やるべきこと、やりたいことの狭間でもがきながら、常識からほどよく外れて生きる道を模索しよう。












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