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例えば、ナスならナスについて誰よりも詳しくなれるように勉強したとして、オウンドメディアで稼げるか

僕が中学の時に作家の筒井康隆さんが書いていた中学生向けのSF入門の本を読んだ事があります。

その中で君が思いつくぐらいのアイデアは、誰かが既に書いていると言うのがありました。

実は、これは何にでも言えることです。

自分では一生懸命考えたつもり、勉強したつもり・・・

しかし、その考え、知識は既に「誰か」が発表しているものだったりするわけです。

それで、例えば、ナスでもキュウリでもトマトでもほうれん草でも大根でも、いや、野菜じゃなくて、他のテーマでもいいんですが、

月に5冊も10冊も本を読んだとして、週イチ1-2冊のペースですから、相当なものですが、

しかし、そうやって得た知識と言うのは、その本を書いた人が既に発表しているものですから、結局、そういう「勉強」では、そもそも「誰よりも詳しく」はなれない・・・

実は、僕はちょっと前に「観音様クラブ」ってのを考えてみて、やめることにしました。

ビジネスとして「宗教」ってのは、儲かるか?、まあ、強迫的な形で献金集めるとかはしないで、「持続可能な事業」として考えた場合、どうなんだろう?

ってのを考えていて、

これも、先の筒井康隆さんの本と同様、「完全教祖マニュアル」って本に自分で教義を考えるなってのがありました。

つまり、キリスト教とか仏教とか既に完成度が高い「OS」が出来ているのだから、自分で考えるより、ドッチのOSで行くのか?

自分の「宗教」を売ると言う場合、キリスト教系の教義にするか仏教系にするか考えた方が効率的と言うことのようです。

でまぁ、「儲かる」、そして「持続可能な」事業として考えた場合、ドッチがいいかって考えているうちに、

いや、それなら、いっそ、「観音様クラブ」みたいなものをやって、既存の寺社仏閣が出している情報をそのまま流通させちゃった方がもっと効率的なんじゃないか?

なにも自分の宗教(オリジナル商品)にこだわる必要ないじゃん・・・

って考えて、じゃあ、まず、仏教について勉強してみようって思って、ひろさちやさんの「仏教の歴史」を読み出して、

あ、これはダメだ、ちょっとやそっと勉強したぐらいでは、世間に通用する「観音様クラブ」ビジネスは出来ないと思って、

「観音様クラブ」構想は取りやめにすることにしたわけです。

僕はひろさちやさんの本で、これは自分はちょっとやそっとでは追いつけないと思ったのは、「阿羅漢夢精論争」

つまり、仏になるために修業している阿羅漢は、夢精をしていいのかと言う論争を取り上げているくだりを読んででした。

僕は割りと宗教・思想関係の本や聖典・原典は読んでいます。

そして、例えば、旧約聖書のルツ記で「大富豪のベッドに潜り込んで玉の輿大作戦」で生まれた子どもの末裔が、ダビデ王、更には旧約聖書・新約聖書の系図を辿っていくと「肉によるマリアの夫・ヨセフ」まで到達するとか、

(ルツさんは、モアブ人なんですが、旧約聖書にはアンモン人とモアブ人は主の会衆には加われないって書いてあります。

そのモアブ人のルツさんが富豪のベッドに潜り込んで「できちゃった婚」で生まれた子どもの末裔が主の会衆どころか、主イエス・キリストって大丈夫か?キリスト教、いや、そんな偏狭な民族差別を超える偉大な愛が聖書には説かれているってツッコミどころ満載なんです。)

日本書紀で九州のクマソ征討からヤマトタケルが帰ってきて、今度はお兄さんの番ねと言われて、草むらに逃げ込み、父天皇が、呆れて、イヤだと言うものを無理には行かせられない、美濃に領地をやるからそこで暮らせって話が出てきます。

ところが、その美濃・・・実は、その前の方から読んでいくと、お父さんが美人姉妹がいるからお妃にしたい、見てこいと言われて、お兄さんは「密かに女たちと通じ、復命(報告)せず」

・・・アレアレアレ、もしかして、お兄さん、自分で美人姉妹とやっちゃった?、でもって、敵と戦うつらい任務は全部弟に押し付けて、自分は美濃に領地もらって、美人姉妹と悠々自適?

ルツさんのお話もお兄さんの話も、聖書や日本書紀をちゃんと読めば、そう書いてあるんですが、全部読んで、こういう成り行きを理解している人は少なく、そのへんにある聖書や日本書紀の解説書には、「富豪のベッドに潜り込んで玉の輿大作戦」や「美濃美人姉妹、お兄さんニャンニャン事件」みたいなことは書いてありません。

ですから、僕の聖典・原典についての知識は、こういう「下ネタ」が言えるぐらいの「高水準(?)」なんですが、

それでもひろさちやさんの「阿羅漢夢精論争」を読んで、自分の水準の低さを思わされたわけです。

「阿羅漢夢精論争」と言うのは、単に仏典を熟読したとかではなく、仏教の歴史の中で、いろいろな宗派がどう成立してきたか、その成立の過程でどういう議論がなされたか、かなり熟知していないと書けない事です。

そして、既に、そういうことを書いて出版している人がいる以上、ちょっとやそっとの仏教の勉強・・・主だった経典を熟読する程度のレベルでは追いつかない

観音様クラブってのをやっても二番煎じ、三番煎じにしかならない、そう思ってヤメにしたわけです。

さて、僕は、今、菜園起業大学をやっています。ちゃんと受講生もいるのである程度は「お金」が稼げていることになります。

別に僕はナスやキュウリについて誰よりも詳しいわけではありません。発芽温度がどうこうみたいなことは、既に誰かが調べて発表している情報に依っているわけで、僕よりナスやキュウリ、トマトやほうれん草に詳しい人はいくらでもいると思います。

それでもある程度、「お金」にはなっているわけです。

他方、聖書や日本書紀を読んで「富豪のベッドに潜り込んで玉の輿大作戦」とか「美濃美人姉妹お兄さんニャンニャン事件」とか、「普通の人(?)」が思いつかないような観点でブログを書いても、こちらは「お金」になっていません。

では、お金になるのとならないのと違いはどこにあるのか?

と言うと、野菜の場合、とにかく、僕は20年間野菜を育てて販売していて、地元野菜宅配サービス・野菜のマイクロマーケットも10年以上続けている・・・

そして、半農生活で多品種少量栽培をやるための手法として「たんぽぽ農法」と言う独自ノウハウを生み出してきた・・・

その結果、例えば、昨年はJA経営実務に連載をさせていただきましたし、東京農大で開催された次世代農業サポート研究会でも講演させていただきました。

つまり、僕の農業に関する取り組みは「世間」が認めているが、聖書や日本書紀についての「下ネタ」は楽しいお話としてみんな受け取ってくれるかもしれないが、「お金」が稼げるほどには世間は認めていないって事です。

(ひろさちやさんの「阿羅漢夢精論争」はちゃんと「仏教の歴史」って本の中に書かれていて、その本が売れているので、「世間」が認めているわけです。)

そして、お金が稼げるほどに世間が認めると言うのは、たぶん、長い竿の上までよじ登って、そこから更に飛び移る・・・

学生の時、お世話になった神父さんは「弁証法」ってものをこの「竿の先からのジャンプ」だと言っていますが、

唯物弁証法を掲げたマルクスは量が質に転化する・・・と述べています。

農業でも宗教でもいいんですが、ある題材について、「勉強」を徹底的に続け、徹底的にいろんなことをやっているうちに、今までと違うものが見えてくる・・・

その結果、竿の先からジャンプして、次のところに乗り移れるようになった・・・

この状態が「世間」が認める状態なんじゃないかと思います。

まぁ、そういうわけで僕の「観音様クラブ」もやっぱり20年ぐらいやれば、世間が認めるようになるかもしれませんが、

今、僕は農業の方と、ポーカーチップ算数の方だけで十分忙しく、この2つの方面で磨きをかけた方がいいと思っているので、観音様クラブに20年掛けて竿の先からジャンプする方は、まぁ、80歳ぐらいになって、今より「ヒマ」になったら、それから100歳まで20年掛けてやってもいいですが、とりあえず、今はやらない事にしたわけです。

まだまだ暑い日が続いていますが、それでも雨が降ったりして気温は一時期よりは下がり気味です。

連日、直近、そして2周間予報を見ながら、いつ、ニンジンやブロッコリーやタマネギの種まきをするか考えています。

五枚目の数字づくり、本日のお題は、「7」、「6」、「7」、「1」を使って、「3」を造るです。

頭の中で考えていないで、実際にポーカーチップを積んだり、並べたりしてやってみましょう。

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