原初にカオスが生じた。胸幅広いガイア(大地)、雪を頂くオリュンポスの頂きに宮居する八百万の神々の常久に揺るぎない御座なる大地と、路広の大地の奥底にある曖々たるタルタロス、さらに不死の神々のうちでも並びなく美しいエロスが生じたもうた。この神は四肢の力を萎えさせ、神々と人間ども、よろずの者の胸うちの思慮と考え深い心をうちひしぐ(ヘシオドス 神統記 岩波文庫版)

ヘシオドスの神統記では、原初にカオス=混沌があったと述べており、その混沌の次に大地、タルタロス(奈落)、そしてエロスが生じたとしています。

カオスが大地、奈落、エロスを産んだと言うような因果関係があるわけではなく、単に混沌に続いて、これらのものが生じたと述べているだけです。

大地がここで生まれてくると言うのも興味深いのですが、まずは、奈落、エロスが混沌についで生まれてきたと言う点を旧約聖書の天地創造神話と比較してみたいと思います。

旧約聖書の創世記では、奈落やエロスを神様が創ったとは書いていません。人がエデンの園を追われるのは、「善悪の知識の木の実」を食べた結果として説明されています。

興味深いのは、神統譜でエロスは「思慮と考え深い心をうちひしぐ」ものと述べられている点です。

旧約神話で、人が「善悪の知識の木の実」を食べたことで、人は「善悪」を知る判断力を身につけたと見るべきなのか、そもそも、神様の戒めに背いてその実を食べてしまったと言うことが、思慮を欠いた行為と見るべきなのか、難しいところです。

どちらにしても、神統譜の方が「他律的」であり、旧約聖書の方が「自律的」です。

すなわち、混沌に続いて、奈落・思慮と考え深い心をうちひしぐエロスが生まれたとすれば、人が思慮を欠いた行動により奈落に落ちたとしても、それは、「自己」の外側にあるものによってそうなる運命だったのだと言えるわけです。

しかし、人は神様の戒めを守る自由も守らない自由も持ち合わせているとか、善悪の知識の木の実を食べたのだから、善悪を判断する力を得たのだとかと、考えるならば、思慮を欠いた行動をするのも「自己」の自由であり、その結果、奈落に落ちたとしても、それは「運命」ではない、自己の行動の帰結だと言う話になります。




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