現代アートに“沈む”ということ

現代アートに興味を持ったのはここ数年の話で、以前は「なにコレ、わけわかんねwww」と一笑に付していたのだ。そんな私がなぜ、今さら現代アートに興味を持つようになったのか、私なりに考察してみることにした。


興味を持ったからといって、現代アートに対する感覚は良くも悪くも以前と変わっていない。

わからないのだ。なにも、わからない。美術館やパンフレットに作者の意図がそれとなく書いてあるけれど、残念ながら今の私にはそれをくみ取ることができない。滲んだ点々が都会の混沌を表現して――って、知るかよ! あまりにも訳が分からないものだから、それをどうしても自分に落とし込んでみたくて、背景を勝手にねつ造したりしているけれど、それはまた別の話で。

私にとって、現代アートだけでなくアートというものは不可解の塊でしかない。なぜこれを作ったのか、それに意味はあるのか、どうしてそこにその色を置いたのか、他の色ではいけなかったのか――。大概の創作がそうであるように(こうすれば魅力的に見えるとか、一定層のターゲットに受けるとかそういった基礎はあるだろうけれど)、作るということはあまりに自由すぎる。

読んでる人にこうした方が伝わるだろうと、私は過去の知識からとりあえず主語の後ろに“は”や“が”をおくけれど、それが絶対ではないのだろう。絵画や立体物になれば、それはさらに自由になる気がしている。勝手にもそう思うのは、それは私が描くことを生業にしていないからかもしれないが。

そして、私からしてみれば、一定数の作り手は自らの表現をダイレクトに伝える気など微塵もない気がする。いや、わかりたいよ? いや、せめてわかってるふりだけはしてあげたいよ? 直接に綺麗な景色をかくよりも、どろどろしたものを隣に置いて対比した方が……って、で、なんでそういうコメントになっちゃうの!? 

なんて、とかくアーティストというやつらは、私を混沌に引きずり込みたいだけな気がするのだ。

だが、一周回ってそれが今の私には、なぜか心地よく感じているのも事実。わからないということは(たとえそれが解決できないことだとしても)、人が生きてると感じる上で大切なことなのかもしれない。

こんな話をされたくはないかもしれないが、アラフォーの独女の毎日は恐ろしいほどに予定調和だ。凪といっていい。同じ仕事を10年以上続けていれば、大概のアクシデントを経験しているし、原因となるミスも予想できる上にどうリカバーすればいいかもわかっている。合わない人間関係は、残酷といえるほどに月日が解決してしまったから、わずらわしさを感じることもない。都会で一人暮らしをしていれば、不便さとも無縁だし、家族ともある程度の距離をとれる。

不可解が、足りないのだ。

やる気になれば何でも一人でできるけど、それでも今さらこの世界を変えるほどのことはしたくない。

わがままな私を、一瞬だけ不可解という海に連れて行ってくれる存在としての現代アート。

現代アートを愛でるとき――予定調和な日常の、些細なる不可解にわたしはやさしく沈むのだ。

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