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青森県誕生の話

「青森県の生みの親・広沢安任(ひろさわ やすとう)」

〜津軽と南部を繋げた斗南藩〜

かつて幕末
青森には
津軽領に弘前藩と黒石藩、
南部領に八戸藩、七戸藩、斗南藩(となみ)がありました。

歴史に詳しい方、南部の近隣の方には珍しい話ではないですが
斗南藩って馴染みが少ないと思います

そこで
今日は斗南藩にまつわるお話から始めようと思います。

ちなみに斗南とは
「北斗以南皆帝州」
翻訳すると
北斗星より南はすべて帝の治める地 という
中国の詩文からの名前だそうで

斗南藩の場所は
青森県東部
現在の下北半島の大部分と
八戸の西側にある飛び地の部分となっています

下北半島の恐山で有名な円通寺に藩庁があったそうですが
その存在期間というのが
何と2年、短期間しかなかった藩ということになります。

さてこの斗南藩、どのような経緯があるのかというと

幕末の争乱において、
明治政府に最も抵抗した会津藩士の人々が
移されてできた藩なんだそうです。

会津戦争ってご存知でしょうか
大河ドラマ「八重の桜」や白虎隊の各種作品で何度も取り上げられているできごとなので、大筋をご存知の方も多いのかもしれません

出来るだけ短く説明してみます

薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府軍と
会津藩や徳川旧幕府軍、
東北の各藩が集まって結成された奥羽越列藩同盟などのとの間で行われた戦い戊辰戦争(ぼしんせんそう)

その戊辰戦争が明治元年(一八六八年)に起こったんですが
いくつかあるうちの最初の戦いが会津戦争です

この会津戦争

攻めてくる明治新政府軍に対して
会津藩は若松城に篭城して激しく抵抗し
城外での遊撃戦などを続けましたが、
明治元年九月二十二日(十一月六日)、新政府軍に降伏しています。

犠牲になった人は数多く
白虎隊などの悲劇が語り継がれる悲惨な戦だったそうです

その後
会津藩松平家は、
政府に対する逆賊という汚名を課せられ
所領を没収、会津藩は家名断絶しますが

後に
明治2年(1869年)11月に

領地を
「青森県東部」か「猪苗代(福島県耶麻郡)」のどちらかを選び
再興をすることが許されます

選択に悩んだ末、会津藩は青森県東部での存続を選びます

何故住み慣れた会津を離れ
青森を選んだ訳はハッキリわかってないようですが

一説によると
重い税金を課していた会津藩は、
会津の民から恨まれており、農民の一揆を心配していたとも言われています。

このような過程を経て出来たのが斗南藩なんだそうです。

それまで所有してる23万石が
ぐんと減って3万石、
しかし下北、そこは火山灰土の不毛の土地
実質は7000石だったそうです。

その領地に
旧藩士と家族1万7千人余りが下北に移住します

初めて過ごす寒く過酷な自然

そして、慣れない農業
作物もうまく作れず、
終いには飢えと寒さで病死者が続出します
当然逃げ出す人も大勢いたようです

しかし、残った会津人は
斗南ヶ丘建設に始まる原野の開墾をしたり
教育機関である
会津藩校日新館を円通寺(仮藩庁)と三戸に開校し
斗南藩校日新館とし
苦難の中に有りながらも
教育・人材育成に務めたそうです。

そしてそんな中
日本中の藩が県になります。

新しく県になったといえ
斗南県の財政が急に豊かになるわけもありません

そこで
斗南県の県を仕切る高官ともいう
広沢安任はこの時
ある情報を得て思案します

それは近々
新政府がたくさん出来た県を集約
合県、いわゆる廃藩置県をするというものでした。

広沢が考えたのは
財力のある弘前県との合併です。

しかも
弘前県は
朝廷や新政府から高い評価も当時得ています

しかし、
これは当時考えられないアイデアでした

何故なら

弘前藩と南部藩は歴史上対立してきており
敬遠の仲、一緒に県になど出来るわけもありません

広沢はそこで、
八戸藩の実質的、権力を握る大参事の太田広城はじめ
七戸、黒石などに弘前県に編入する自説を説き回っています

そして
広沢は八戸の太田と共に古い地図、人口分布、その他土地の資料を整え上京

もともと幕府と朝廷の和合を図るべき
公武合体論を持っていた広沢は
京都にて勤皇派の志士とも酒を酌み交わすなどの交流があって

かねてから旧知の間柄だった

新政府の要人、大久保利通と面談を行いました。

そして

旧弘前藩と合わせて新しく県を作ることを提言すると

大久保利通もこの案を取り入れることを了承

そして、ここに現在の青森県へと続く基礎が出来ます。

その会談より
わずか一年ほどで周辺五県が合併し
現在の青森の前身弘前県が出来ます。

弘前県への合県が発令されたのが
明治4年9月4日

弘前県が誕生してひと月も経たない
9月30日に県名が弘前県から青森県に改名されました。

多くの全国の県庁所在地が藩政時代の城下町なのにもかかわらず
青森県の県庁所在地が港町、青森市に決められたのは
現在の知事にあたる大参事の野田 豁通(のだ ひろみち)が
新政府に青森が地理的にも適所であると進言したからとされています

さて

県が出来たことによって
斗南藩の多くの侍はその職を失います。

それぞれ藩士たちは己の道を進んでいきます。
東京に向かうもの、青森県庁に勤めるものなど様々

青森県へと続くきっかけをつくった広沢安任は
その才能を認められ
新政府への役人になるなどの誘いもあったそうですが
これを断り
青森県に残って産業を興し地域の発展に勤める志をたてます。

明治天皇に伴い青森県にやってきた大久保利通に
「野にあって国家に尽くす」と語ったとされてるそうです

さて
そんな広沢は現在の三沢市、谷地頭(やちがしら)に日本初の洋式牧場を作ります。
 
広沢の考えは
これからの日本は洋式に進んでいく
国際的になり外国との交流も増えていく
そして日本人も外国人のような、立派な体格、体力になる必要があるを作る

そのためには肉食と乳製品は不可欠

まして
斗南の地は、米作には不適

しかしながら、七戸の先達・新渡戸傳は牧畜に力を入れている。

そして
半ば湿地で、夏には塩気を含んだ霧が海から吹き付ける
小川原沼(小川原湖)の太平洋側、現在の三沢市谷地頭に
八戸県大参事・太田廣城と共同出資で、
谷地頭に近代的な牧場を開いたそうです。

そして広沢は全国に洋式牧畜を広めるべく、
広沢牧場東京出張所を設けたといいます。

彼が切り開いた広沢牧場の跡地が「斗南藩記念観光村」

今はたくさんの観光客が訪れる場所になっているそうです。

また、広沢安任の功績を伝える施設が三沢にあります。

機会があれば是非お立ち寄りください。

参考資料
青森の歴史(青森市発刊)
参考サイト
http://kite-misawa.com/tonamihan/
https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11015a/kikaku-hokkaido-03.html
http://www.shichinohe-kankou.jp/jiten/history/hirosawa
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-aomori0005.htm

広沢安任写真引用
Source 三沢市 斗南藩記念観光村


記事編集文/鈴木勇

本稿は、史実をもとに参考サイト並び書籍を元に独自に構成いたしました。
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