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【小説】 亮介さんとあおいさんとぼくと 4/30

ふと気がつくと、鳥貴族には亮介さんとぼくしかいなかった。

テーブルに残っているのは、空のジョッキたちとほぼ手をつけられていないジムビームのロックだ。亮介さんが限界を迎えていることがわかる。

彼はお酒を飲むとき、なぜか最後にジムビームのロックをたのむのである。ジャックダニエルでも、バーボンでもいいはずなのだが、どうしてもジムビームにこだわる。

いったいどんな過去があったのだろうか。親父の形見でもあるまいし。

「いや、親父がな、むかしからジムビームをロックで飲んでたのが印象にのこっててな。ジムビームを飲んでみるとな、こどものころのことを思い出すんだ。

それで『親父元気かな?』からはじまって、いろんなひとにおもいをはせて、最終的にエモをこじらせてしまうのだよ。酔ってくるとなにかこじらせたくなるだろう?

そういう流れでいつも、ジムビームをたのんでしまうんだよ」

「いいたいことは、なんとなくわかりますよ」

 

この年になると、どうしてもむかしの方がよかったようにかんじてしまう。比較的、純粋で無垢だったあのころ。

「比較的」といったのは、こどものころをじっくりと時間をかけて丁寧におもいだしてみると、大人が期待していたほどぼくは純粋ではなかったし、充分に人間のゆがみのようなものは存在していたからだ。

大人にくらべると、行き場のないおもいを表現する手段が、面とむかった悪口やなぐるけるの暴行だったり、いくらかシンプルだったりする。

こどものころ、いつもあたらしいことが待ち受けていて、じぶんはこれからどうなってしまうんだろうと怯えていた。未来にたいする漠然とした不安のようなものがあった。

それにもかかわらず、年をとってくると過去はかがやいてみえるのだ。

二十歳になったとき、びっくりするくらいじぶんという存在はお子ちゃまだった。こんなはずではなかった。

ずっともっと大人になる予定だった。二十歳の誕生日をむかえるとヒトというのは立派な大人になるものだと信じていた。

けれどもそんなことはなかった。ハタチになった日の夕方にやっと、どうやら事情がちがうようだと気づいた。二十歳になっても、あいかわらず、未来には漠然とした不安があった。

いまも立派な大人であるともいえないかもしれない。けれどすくなくとも、二十歳をこえたあたりから、大人としてふるまうことは求められる。

そういう状況に応じて、ゆっくりではあるが、すこしずつ確実に、大人らしくふるまえるようになっていった。

グラデーションの色見本のように、となりあった色同士はたいした変化はないが、端と端に目をやれば、まったくちがった色になってしまうのだ。

大人というのは、大人らしくふるまうときだけが大人であって、根本的には二十歳のころとたいして変わらないとおもう。

ただ、こどもらしさというか、ゆがみを他人にみせないように努力するかどうかの問題である。

努力をしない人間は「こっちは客なんだぞ」とか「年下のくせに生意気だ」とかいって、立場に甘え、ゆがみを他人に押しつけるようになっていく。

ぼくは、ゆがみについては、抑えることはできるようになった。たいしたことでは怒らないし、傷つかないし、落ち込まない。もちろん可能な範囲ではある。

そういう意味では、二十歳のころとくらべると大人にはなったけれども、感動がないというか熱がないというか、人生がずいぶん平坦で落ちついたものになった。


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