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スポーツにおける「楽しみたい」と「勝ちたい」は共存するのか

まず、私の答えは「共存する」です。

さて、このタイトルは言い換えると「苦しいことを乗り越えなければ(過程)、勝てないのではないか(結果)」だと解釈しました。「楽しさ」と「勝つこと」がトレードオフの関係を意味します。

きっかけを頂いたので、この深めの問いに対して、私の考えを言語化に挑戦してみたいと思います。「目的」と「手段」で整理していきます。

スポーツの本来の「目的」は「気晴らし、楽しむこと」です。競争することはあくまでも「手段」です。「楽しみたい」という欲求は「目的」で、「勝ちたい」という欲求は「手段」です。

「楽しみたい」は絶対的な尺度です。ワイワイ仲良くやること、目標に向かって努力すること、自分自身で練習内容を決めて運営すること、困難に立ち向かうことを楽しみたい等、試合や試合当日までの練習を含めた「過程」を指します。

「勝ちたい」は相対的な尺度です。勝っても負けても、試合の「結果」を指します。自分自身でコントロールできない要素も多くあります。

このように「楽しみたい」が「目的」で「勝ちたい」が「手段」を前提にすると、両者が共存できる可能性がみえてくるかと思います。「負け」ても「楽しかった」が達成される可能性は十分にあります。

一方、「目的」が「手段」が入れ替わった場合を説明します。「勝ちたい」という欲求が目的で、「楽しみたい」という欲求が「手段」です。このとき、「勝つ」ことが目的化され、成果を出すにはスポーツそのものを「楽しめなくてもよい」という本末転倒の「選択肢」が出現します。

極端な話、勝つためには手段を選ばないことにも繋がります。例えば、ドーピングは典型的な例です。なぜ、そうさせるのか。その1つがスポーツにおける「勝つこと」の「価値」が相対的に高まっていったからです。

身近でいうと、スポーツ活動における成績が進学に影響することが挙げられます。また、オリンピックでいうと、1984年ロサンゼルスオリンピックから商業化が影響していると考えられます。金メダルをとれば、生活を送るのに一生安泰のような国もあるようです。

「出場する(プレーすることそのもの)ことに意義がある」

かつての、オリンピックのアマチュアリズムの象徴的な言葉です。1984年以前の方がスポーツは健全だったかもしれません。オリンピックのみならず、あらゆるカテゴリにおいて、改めて思い出したい言葉だと思います。

この言葉自体が、「楽しむこと」を自体(プレーすること)を目的化し、「勝ち負け」を手段化するメッセージになりえるのかなと感じています。

で、ここまで話すと、じゃあプレーすること自体を楽しむことができるようにするには、どうしたらよいのかという話題になりそうです。簡単にいうと、スポーツそのものに対する「動機づけ」をどのように涵養していくか、です。それは、また別の機会に触れたいと思います。

文章をつくりながら、いろいろと補完的に説明が必要だなとか、少し雑過ぎだとか、いろいろ思うところはありますが、一旦今回はこの辺りで閉じたいと思います。

お付き合いいただきありがとうございました。

▶︎縄田亮太のプロフィール

バレーボールに関する記事を執筆しています。バレーボーラーにとって有益な情報を提供することをコンセプトにしています。