見出し画像

渡米の苦しみと醍醐味  2

1981年 正確には 1980年 12月25日 渡米 大阪伊丹空港では 
友人連中が 松村和子の 帰ってこいよ 歌いながら見送られて 俺は伊丹から 昔の羽田空港経由で アメリカ ロス アンジェルスに飛び立った。
しかし、その前に話しておかなければならない 話がいくつかあるので 今日はそこの部分を書いていこう。
小学校 中学と順調に進んでいた俺だが 高校受験で 大きな失敗をしてしまった 受験した学校全てで不合格。そして まさかの低次元の高校に入学する羽目に、そこで俺はもう絶望感に打ちひしがれて もうどうでもいいわって感じの生活をおこなっていた。しっかり勉強しなくても 上位3人に入るから真剣に勉強しないし、全てを投げやりになっていた。そして 加入していた陸上部も先輩は走りが遅く、俺が一番のクラブ そんな中 大阪の大会で 俺は大きな衝撃を受けた、近隣のN 高校としよう そこの顧問に お前ちょっとこいって そして殴られた 往復びんた なんで俺が殴られるんだ、そう思ってると お前は勝てる試合を自分で全てぶち壊して 他の選手にも迷惑をかけてるじゃないか、って それでも理解できない俺は ぼーっと突っ立てると その先生は明日俺の学校に来い、練習見てやるって
なぜか そんなことを言い出し おれはその日からその先生に いろいろアドバイスを受けることになった。そして 高校3年で大学に行く時 俺の父は 日本の大学だけ出てれば 何やってもいいと 言い出し 俺はその時 何言ってるんて感じで ぼーっと聞き流していた。付属の大学なんで難なく入学して また 陸上部に加入しかしここも非常に弱小 話にならん。個人で 練習して試合に参加するも面白くもなんともない。勝てないし 意欲をなくしたとき、親父が おい 来年夏休みアメリカ行ってこいって 当時まだ そんなにポピュラーじゃない海外旅行 しかしタイミングよく made in USAって 本が発売されて 西海岸ブームが始まろうとしていた そしてpopeye と言う雑誌も発売されて、アメリカが 大きなブームになり出した時だった。親父の言葉を胸に 学校 クラブ そして アルバイトに時間を割いて 1日が24時間で足りないくらいのスタートだった
大学の2年生(関西では2回生と呼ぶ)夏休み 大阪の旅行会社のパンフレットで アメリカ西海岸10日間 22万円と言うのがあり それに申し込んで参加。鮮明に覚えてるのは生まれて初めての飛行機で 離陸時の体が押さえつけられる衝撃に感動 そして興奮して全く眠れない機内。ロスアンジェルス空港に降り立った時の 空気 (匂いかな) あの ガソリンの匂いなどがすごく 新鮮で これがアメリカだって。ツアーであるので ガイドさんの指示で 車に乗り込み ホテルへ ダウンタウンのヒルトンホテルへ
ここで衝撃が 普通に部屋に入り 帰国の日まで全て自由 そして ガイドさんは何もしない オプションを頼んだ人だけげ ガイドさんとどこかへ
何も頼んでいない俺は全て 単独行動 まず 喉が渇いたのでビールでもって思い 自販機をみると ルートビールって書いてある(RootBeer)
しめしめと お金を投入して そのビールを取り出して 色は黒ビールかって感じの黒さ。栓抜きで栓を抜いて 飲んでみるとなんじゃこれ 風邪薬かって こんなのアメリカのビールかって、えーっと思いながら 飲み干してフロントに聞いてみると それはビールと名のついた ジュース 結局 このツアー中一度もビールを飲めず。そんな中、母から預かった 母がたの親類の叔父が住んでるから 会いに行ってくればって言われたことを思い出して 住所片手にバスなどを探すためフロント聞くと 行けないよ 遠すぎて 
車がないとだめって。途方に暮れていたが 拉致が開かない そこで 俺の持ってる 悪知恵が頭をもたげてきた。
ホテルの前の大きな通りの真ん中の中央分離帯で立っていれば警察が来るだろうって思い、多くの車が往来してる ウイルシャーブルバードの中央分離帯へ すると 10分もせず警察が来た。話しかけられても英語がさっぱりわからず 手に持ってる住所を見せると 頭を抱え込み 誰かに無線連絡
そして 俺をパトカーに乗せて連行 しかし なかなか警察に到着しない。
えー留置場に連れて行かれるんか?これやばいって思ってると 一軒家の庭先で下ろされて 警察がその家に入っていくと そこは 叔父の家だった。
そして 叔父は警察からお咎めを受けて その後俺が叔父からこっぴどく叱られた。最後は叔父は呆れていたけど。このように 時として 人のかんがえでは思いつかないことをしてしまい、幼少期から親を呆れさせていた。叔父から アメリカの危険性など一通りのレクチャーを受けて 叔父の車で街中を観光がてら ホテルに送ってもらい。
その日は、無事に終了した。ここから 初めてのアメリカでの珍道中を皆さんにお知らせいたしましょう。
翌朝、朝早くめがさめ 、ホテルを出て散歩がてらオープンしていたレストランに入ると すごく異様な光景で その店はカフェテリア形式で トレーに欲しいものを載せて 最後に会計を済ますところなんだが いざ キャッシャーでお金を聞くと、全く英語がわからない、ここまで俺って英語できないんか?えーって困惑してると、一人の女性が来て、助けてくれた。
そしてわかったのは、そこは皆メキシコ人ばかりの店で 店の公用語はスペイン語 こんな 笑える話だが、当時は全てに必死だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?