見出し画像

目に見えないモノ

拝啓 名前の知らない君へ

気候が夏へと移り変わる。梅雨の匂いはまったくしない。夜になると、どこかで蛙が鳴く。姿が見えないのでそれが蛙と断言することはできない。なぜ人は中身が見えないと不安になるのだろうか。

思えば13年間ずっと一緒だったポメラニアンは、目が見えなくなってからも平然としていた。平然と菓子を狙い、平然とそれを平らげた。そうして足音と声色と、それから服に沁みついた匂いとシャンプーの香りだけで、それが誰かを判断していた。

自分が今、どこを歩いているのか。
どこを目指して突進しているのか。

まるで見えているかのように振る舞っていた。不思議だ。言葉が解らないから(と我われは思っている)起こる出来事を説明して安心させてあげることもできない。

「白内障なんだって」
「歳を取ったんだね」
「これがあたらしいご飯だよ」
「外は雨だから」
「散歩に行けないね」

なんて。無力に等しい言葉の残骸。それでもぴくりと耳を動かして、しっぽをふってくれるのだから、やっぱり理解していないのはこちらの方なのかもしれない。たしかに言葉は偉大だけれども、だからこそ、それを越えるものはもっと偉大だ。

なぜ人は中身が見えていないと不安になるのか。どうして他人の本心を確かめないと落ち着かないのか。自分に直接関わるすべてのことを知らないと気が気でないのか。

そこには、ほとんど視覚に頼り切っている事実と、それしか見ようとしない視野の狭さと、信頼とが大きく関わっている気がしてならない。

ときに言葉の裏側はまったく事実を映していない。

いつだか、猫目に「正論は正義じゃないから」といい放った彼女の言葉が、今更のように鼓膜にこびりついて離れない。

今、目に映っているものがすべてじゃない。それを教えてくれたのはまさしくポメラニアンだ。だから猫目はポメラニアンが好きだ。今でも時折、彼の幻影を追っている。

じっさいは存在していないのに、まるでそこに存在しているかのように、追いかけている。これを一般では幻を見るという。感覚の錯誤によって生まれるシロモノ、まぼろし。

いいと思うよ、それで。じゅうぶんだって。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?