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「ウォーハンマー 40,000 10版」の(ゲームシステムのみの)感想

 以下の文章は全て個人的な見解です。権利者の方々による指摘や、個人的な気付きによって、予告なく変更・削除する可能性があります。
 また、視界が狭い人間なので、色々とご指摘いただければ幸いです。




前提

  • 様々な要素があるゲーム作品だが、本記事では特にゲームシステム、あるいはゲームシステムに関連する部分だけの感想に留める。

  • 本格的にプレイしたミニチュアゲームは本作が初めてであり、他のミニチュアゲームとの比較は行えないし、ここで紹介するのは、(一部の)ミニチュアゲームそのものの特徴も含む。

  • 9版は一応、プレイしたことがあるが、比較できるほどプレイしたわけではないため、過去の版との比較は行えない。

  • 10版がリリースされてから、20戦ぐらいは行ったと思うが、逆に言えばその程度であり、トーナメントなどの競技的なゲームの経験はない。

  • 本作自体の紹介や他の側面に対しては他記事などに譲る。



感想

ミニチュアとデータとの分離

 TCGなどと同じように、ゲームの前に事前にアーミー(デッキのようなもの)を組む、という事前構築のメカニクスを導入しているが、その対象となるユニットは、大きく分けてミニチュアの側面とデータの側面がある。

 ミニチュアの側面というのは、物理的な面であり、そのモデルを買い、組立を行い、塗装をして完成させるものである。

 データの側面と言うのは、情報的な面であり、そのユニットがどのような能力を持っていて、どのようなコストなのか、というものである。

 これが分離しているのが面白い点だ、と感じた。


 どういうことかと言えば、たとえば、「マジック:ザ・ギャザリング」で『執着的探訪』というカードを手にした場合、そこにはカードの効果が書いている。もちろん、「マジック:ザ・ギャザリング」で言えば、厳密に言えば物理的なカードが持っている情報は名前だけであり、その効果はオラクルに記載されているものではある(コアルールの変更などで、カードの効果が厳密には変わることがある)。ただ、これは例外的であるし、他のルールに合わせた変更、という側面が強く、たとえば、コストが変わるとか、スタッツが変わるとか、そういうことはまず起こりえない。

 しかし、本作(ミニチュアゲームの多く)は、ミニチュアとデータが分離している(データが物理カード化されていることはあるが、ミニチュアとは分離している)。よって、データの部分が更新されることがあり、そうなっても、ミニチュアは持っているので、それを流用することができるのだ。

 ウォーハンマーの場合、3年に1度ほどの割合で(大きな変更が毎回行われるわけではないが)版替えがあり、この時点でコアルールが変更され、それに伴ってデータが書き換わることになる。

 そうでなくても、バランス調整などで、コストや効果、スタッツが置き換わることがあるのだ。これはDCG(デジタルカードゲーム)的な修正であり、これがアナログゲームで比較的頻繁に行えるし、それが可能である、ということが興味深いと感じられた。


 普通に考えてみれば、たとえば、そのユニットが強力だから、それを購入する、ということがあるのに、それが弱体化されるのは問題であって、だからこそ、BCG(ボックスカードゲーム)のエラッタであるとか、DCGで補填をしながら変更するとか、そういうことになる。

 しかし、ミニチュアゲームの場合、そのミニチュア自体に価値があるのであって、それの販売という側面がある。それによって、価値の毀損はそこまで致命的ではなく(とはいえ、勘弁してもらいたいものではあるが)、許容されている側面がある、と感じられる。

 また、本作ほどの大きなコンテンツであれば、数年後も運営が続いていくことが期待でき、その際にデータが更新される可能性も高いわけであって、そこで再び日の目を見る可能性もあるわけだ。

 そうなると、今は憂目を見ていても、将来にかけて、保持して置く、ということになり、TCGなどよりは問題に感じない。

 面白い構造である、と感じた。


 加えて、ミニチュアに属人性があり、流動性が低い、という点にも着目すべきだろう。ミニチュアは未組立の状態で売られ、プレイヤーが組立をして、塗装をし、ゲームに使用しているのだ。いわば、そのミニチュアの状態はそれぞれのオリジナルの状態であるし、実際、一定の改造は許可、というより推奨されており、よく行われる。

 結果として、二次市場に流れることも、頻繁には発生せず、基本的には自身で保管し、ゲームに使用することになる。

 これは、ボードゲームにおけるミニチュアを塗装する、という以上に意味がある。なぜならば、本作では、ミニチュアが一定以上の水準で塗られていれば、勝利点が得られるからだ。全体(獲得できる勝利点の上限が決まっている)の1割にも及ぶ点数で、競技的にプレイするのであれば、塗ることが必須、といってもよい。

 これは、TCGで考えれば、塗り絵の状態でカードが売られており、デッキに入っているカードがすべて塗られていなければ、ライフが半分で始まるようなものだ。(実際には、もっとキツイ状態だが)

 そうなると、やはり、同じようなカードを使用する可能性が高まる。もちろん、人によるわけではあるが、せっかく塗ったものを売り買いしたり、安易に乗り換えたり、というのは、色々な困難さが伴うわけであり、高額なTCGなどでもよく見られる現象ではあるが、プレイヤーが使用するデータの範囲が固定しがちになる。

 これはミニチュアゲームというゲームの形態から見られる構造であり、興味深く感じる。



位置関係のゲーム

 ゲームが開始し、その実体において、一番重要だと考えられる要素が、位置関係であり、それがこのゲームの根幹を担っている。

 射撃・突撃(からの白兵)という攻撃の手段は、ユニット同士の距離や、テレイン(背景の建物)との位置関係などに紐づいている。

 また、勝利点を獲得する方法も、一般的には位置関係が重要であり、重要な拠点に近くにいるとか、盤面の端にいるとか、相手の陣地に入るとか、そういうことが求められることになる。

 これらを勘案し、ユニットを移動させる、というゲームになっている。


 興味深いのは、それにも関わらず、位置がアナログ的に測定されることである。メジャーを用いて、実際の距離を測る。

 想像通り、それは一定の曖昧さを持つ。ミニチュアを移動させる時も、メジャーで測り、その通りに動かすが、まったくの誤差なく動かすことはできないだろう。距離の測定もしかりだ。なぜ、重要な情報であるのに、それが曖昧なまま許容されているのであろうか?


 まず、第一に、実際のミニチュアをアナログ空間で動かす、という所に原型があり、ゲーム自体がある意味ではそれに付帯されているものだから、という考えがあるのではないか、と個人的に思っている。

 たとえば、マス目(デジタル空間)で管理することはできるのだが、そうなると今度はミニチュアがそれに影響を受ける。マス目は最小の単位だから、その刻みに対応しなければならないし、スクエアにしろ、ヘクスにしろ、それに収まるようなベースの上に乗らなくてはならない。

 フリースケール(アナログ空間)だからこそ、ミニチュアは多彩な形状や大きさの比を持っているし、それによって、構築された戦場が(マス目のゲームよりは)良い意味でゲームっぽくなく見える時もある。

 そういったビジュアル(フレーバー)の遊び、という側面も強く、ゲーム的な厳密性のために犠牲にするには、大きすぎるものだと感じる。

 もちろん、マス目自体を大きくすることで、ミニチュア自体は実質的なフリースケールにすることもできる(「ゾンビサイド」など)。

 ただ、この場合は最小単位の問題から、位置関係のゲームである、という点が弱くなるため、現状の方が良いだろう。


 第二に、ゲーム的に厳密であること自体が、プレイヤーの満足に直結するとは限らない、という点もある。

 上述のビジュアルの話とは別に、ゲーム処理が曖昧だからこそ、ちょっとしたミスをすることも許されたり、ある程度は手なりでプレイしても、それが明確化しない、というプレイヤーの主観的な利点もある。

 ただでさえ、データが膨大である一方で、戦場に明確化されていないゲームではあるので、こういった曖昧さがなくなると、他の情報まで明確化しなければ手を指せないことになりかねず、そうなるとプレイ自体がさらに重くなってしまい、プレイに耐えない可能性がある。


 第三に、その曖昧さは本質的にはあまり問題にならない(と感じた)。

 確かに、ゲームの潮目において、その曖昧さが問題になることもあることにはあるだろうが、そうではないように立ち回ることは可能であり、意識すればそれが問題になることを極力減らすことはできる。

 大事な距離関係はしっかりとプレイヤー間で確認し合いながらプレイしたり、工夫しながらプレイすることで、事実的に問題になることは少ない。

 逆説的に、そのような厳密性が気になるプレイヤーは、本作をプレイすることはないわけであって、結果的に許容される、という側面もある。


 これらのことから、位置関係が重要でありつつも、一定の曖昧さを保っている、という独特なプレイ感に繋がっていると感じる。

 また、位置関係というのは、ゲーム的にかなりの複雑性を持つが、人間には比較的理解しすい(と錯覚しやすい)ものであり、わかりやすさと複雑性の両方を維持しているし、先述のように、ミニチュアゲームに求められるビジュアルを自然に再現させる意味合いでも、価値があるように思える。



大量のダイスロールの使用

 上記のような位置関係のゲームである一方で、同時に確率のゲームでもある。確率もまた、人間には解析しにくいものではあるが、理解はしやすいので、上手い組み合わせであると感じる。

 しかしながら、確率でゲームが決まってしまうのは問題だ。事実的にダイスを振って勝敗が決まるのなら、ゲームにおけるやり取りは無効化される。

 そこで、本作はいくつかのメカニクスを採用している。


 まず、第一に、ダイスロールをたくさん行う、ということだ。

 本作で最も使用されるゲーム処理は、攻撃(射撃・白兵)であり、それだけでも、ヒットロール→ウーンズロール→セーヴィングロールという3つの段階を経て、ダメージを決定する。実際には、各攻撃の特徴や能力などでこれに足し引きされて行き、最高では、攻撃回数の決定→ヒットロール→ウーンズロール→セーヴィングロール→ダメージ量の決定→ダメージ無効化能力の判定という形で、6回もダイスを振ることになる。

 これだけダイスを振る理由は以下のようなものが考えられる。


 第一には、大数の法則により、結果を安定させるためだ。

 最もランダム性の影響が大きいのは、ダイスを1つしか振らない時であり、大量に振れば振るほど、(振れ幅は大きくなるが)結果は平滑化する。

 何度も判定を行うことで、どこかで偏っても、残りで平均に近づくことが期待できる。(とはいえ、どこかで失敗すれば、次の判定は行わないわけであって、下振れ側に安定することにはなるだろうが)


 第二には、小さな値を扱えるようにするためだ。

 アナログゲームである以上、そこまで大きな値を扱うことはできない。

 しかしながら、いくつかゲームルールではいじりにくい数値というものは存在する。

 たとえば、6面ダイスを使用するならば、(特殊なものを使用しないのならば)1~6という数字には縛られるし、ミニチュアの数にも縛られる(もちろん、5体を1体と数える、というようにする方法もあるが)。突撃ロール(距離をダイスの判定値に使用する)のようなものを実装する場合には、ダイスの出目と実際の距離にも繋がりができ、極端な差は設けられない。

 それでも、たとえば、雑魚が大量に攻撃しても、戦車には1ダメージしか与えられなかった、ということを表現する必要は生まれるのだ。

 それを表現する方法の一つは、今のような形ではある。


 第三には、ゲームの能力や効果に幅を持たせるためだ。

 たとえば、攻撃に関連する判定が1つしかない場合、攻撃に関する能力はそれに関わるものが多くなることは想像に難くない。そして、それに幅を持たせるのは、かなり難しいだろう。

 本作はかなりの数のアーミーの種類があり、その中に多くのユニットがいて、それぞれに能力がある。

 もちろん、重複はあるが、それぞれのアーミーらしさ、ユニットらしさを表現するためには、それなりの幅が、ゲームルール自体に必要なのだ。

 複数の判定は、それを比較的表現しやすくする。


 第四には、単純にダイスをたくさん振るのは楽しい、という点もある。

 実際には、これが一番大事かもしれない。



ウーンズロールの小さな整数と相対差

 上記でも言及したウーンズロールという判定は、いわば、その攻撃が相手に有効な攻撃になったか、というような判定であり、こちらの攻撃力と相手の防御力(みたいなもの)を比べて、判定を行う。

 この時、攻撃力が防御力と同等であるのならば、4+(6面ダイスを振り、4以上の出目が出ること、つまり、五分五分ということだ)になる。攻撃力の方が上回れば3+であり、逆なら5+だ。そして、2倍(半分)以上の差が生じた時、2+や6+になる。

 このような数理は理解しやすく、覚えやすい一方で、面白い作用を生んでいる、と感じている。

 要は、相手の防御力付近での整数値の上昇(や下降)に大きな効果を生ませていて、差がある程度ある場合には、小さな上下はほとんど意味がない、という風になっているのだ。

 つまり、歩兵同士のような、基本的な数値が近い相手と戦う方が、ちょっと強い武器を持っていたり、バフの範囲に入っていたり、という点に意味が生まれやすいし、メタ的な環境で、防御力がこの辺の敵が多いから、それを上回る武器を持っておきたい、という風になる。

 一方で、たとえば、歩兵が戦車に対して攻撃する、というような差がある場合には、(対戦車武器のようなものでなければ)バフやらなんやらを付けても、結果はほとんど変わりなく、強化の価値が下がる。

 同じ+1のような効果でも、誰に対して使うのか、その強化を付けた相手が誰を攻撃するつもりなのか、という点で、価値が大きく異なる。しかしながら、処理はシンプルなものになっている。

 この点がとても面白い設計だと感じるし、小さな整数値しか使えない中、シンプルな処理でありながら、深さを生み出していると思った。



情報の秘匿性

 これらのような特徴を持っている中で、最も問題に感じるのは、情報へのアクセスのしにくさだ。

 データカードを使用したり、アプリを使用したり(これは最近、かなり良くなったが)、リストを作ったり、と色々と工夫はするのだが、上述のようにミニチュアとデータはわかれており、それゆえに検索性に難がある。

 ただ、自陣のデータを参照するのはまだマシな方で、問題なのは、相手のデータを参照する時だ。

 各アーミーのデータは、一般的にコデックスというそれぞれごとの本にまとめられており、それでみることができる。逆に言えば、自身が持っていないアーミーのコデックスは当然持っていないのであって、それを参照することはできず、実際の戦闘で相手に聞きながらプレイするしかない。

 あまり頻繁には訊けないし、どうしても、効果を勘違いしていたとか、分けわからん殺しみたいなことは多発してしまう。

 これは、TCGやボードゲームではあまりないだろう。(もちろん、ローグデッキにあたったり、カードプールを把握していなかったりで、似たようなことがあることもあるが、盤面自体は公開されていて、情報がゲーム構造的には公開されているのに、プレイヤーが把握できない、という差がある)

 この点を問題に挙げるプレイヤーの意見をみたことがある。実際、ある程度は改善していく方が、初心者もプレイしやすくはなるだろう。

 初心者は、何が重要な情報なのかわからない。熟練者であれば、どのタイミングでどの情報を公開すれば、ゲームを上手く運べるか、についての知見があり、問題になりにくいが、初心者はそうもいかない。

 ミニチュアゲームが初心者に難しく感じられるのは、この未知性、不明性とでも言える部分の影響が一部あるのではないか、と思う。カードゲームのように、そこに出ているカードの効果を読めばいい、とはならないのだ。


 ただ、実際にプレイすると、個人的にはそこまで問題には感じなかった。

 デジタルゲームであれば、データや処理が秘匿されたまま進むことはよくあることだし、カードゲームであっても、たとえば、「マジック:ザ・ギャザリング」の統率者戦のように、複数のプレイヤーがあまりにも広いカードプールでプレイする場合、カードの効果や処理はある程度、プレイヤーを信用して、簡易的に進めていくことも多い。

 鍵になる情報がわからない、という話はあるが、それはプレイしていく中で覚えていき、そういったことは、一般的なボードゲームやカードゲームにも存在していて、特別なことではない。

 ただ、やはり、本来であれば、アクセスできるはずのものだったのに、それができなかったせいで、というのは印象に残りやすいのだろう。人間は権利を行使できるのにしなかったり、そのせいで不利益を被ることが苦手であり、苦々しく思うこともあるからだ。

 とはいえ、すべての情報が完全に公開されていたら、それはそれで初心者は面食らうのは間違いない。たとえば、近年の「マジック:ザ・ギャザリング」の複雑性は間違いなく、そういった側面があるだろう。カードゲームをプレイしてこなかった人が、盤面に複雑なテキストのカードが並んでいる様子を見ても、困惑を極めるだけかもしれない。

 結果として、情報の秘匿(それが意図しないものであっても)は、スムーズにゲームを進めるための一助になっている。

 最初は、自身に不利になるかもしれないが、情報を公開しない、処理しなかった、という状態で少しずつ、色んなことを把握できるようになっていき、次第に忘れずに、間違えずに処理できるようになる、そんなメタ的なチュートリアルが生まれているように思えた。


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