見出し画像

【火山島6巻・感想】一体、なぜこんなに話が進まないのか考えてみた。

◆萌えも面白さもない、恋愛やもめ事エピソードが延々と続く。

 余りに話が進まないので、1巻を読んだあと6巻を読み始めた。
 だが六巻でも、驚くくらい話が進まない。
 200ページくらい「主人公の妹・有媛(ユウオン)が、嫌味で俗物な御曹司である龍鶴(ヨンハク)に結婚を迫られて困っている。どうやって断るか」を延々とやっている。
 やっとその話がひと段落つくと(ついていないが)、今度は主人公の芳根(バングン)が恋をした蘭雪(ナンソリ)がもしかしたら娼婦(?)かもしれないと延々と悩む。

 一体いつ武装蜂起が始まるんだよ。

 400ページくらい費やしてようやく芳根が済州島に戻った、さあこれから島が大変なことになるのかと思いきや、今度は友人の梁俊午(ヤン・ジュノ)が入山するのをいかに阻止するかの話し合いが始まる。

 戦時中や歴史上の重大事件、思想的な小説でも主人公の恋愛がエピソードとして入るのは珍しいことじゃない。
 むしろメインではなく、ちょっとしたエピソードとして差し込まれる恋愛話のほうが印象に残ったりもする。

 ただ「火山島」の恋愛や日常エピは萌えも面白さも感じられない。
 読んでいてひたすらイライラする。
 何ならメインの話であるはずの、俊午に対する「山に入ることは止めて島から出ろ」という芳根の説得すら読んでいてイライラする。

 一体、なぜこんなに「話が進まない感じ」がするのだろう。
 一番の原因は、核心を外した会話が続くからではないか。
 どの登場人物、どの組み合わせでも、わざとのように核心に触れない会話をする。
 
核心の回りをぐるぐる回るような会話が何十ページも続き、話が一歩も前に進まない。

 

◆なぜか問題の核心を絶対に理解しようとしない登場人物たち。

 例えば芳根が俊午に対して「山に行かないで逃げろ」と説得するシーンだ。

「入山を、阻止することにある……? 何のことですか、それは?」(略)
「梁トンムにそのように反問されると、おれは辛い。(略)端的に云おう。梁トンムに対する友情だ(略)おれは組織にタテついているわけではない」(略)
「李兄よ、あなたが友情ということをたやすく口にする人でないのを、私はよく知っていますよ。李兄は、私にどうしろというんです?(略)まともな気持ちで李兄がいっているなら、乱心せぬまでも、聞くほうがどうかなるんじゃないだろうか(略)
しかし、おかしい。李兄の問題の立て方がおかしいんだ。友情と組織、友情が重要か組織が重要かの問題ではなく、全然性質の違うものを並立させて、二者択一を迫るような、そのやり方、その仕組みがおかしい」

(「火山島」6巻 金石範 ㈱文藝春秋 P439-440/太字は引用者)

「組織の命令には絶対服従しなければいけないから、山に行こうとする俊午」と「絶対に勝ち目がなく犬死するだけだ。島から逃げろと言う芳根」が会話している。
「火山島」の会話がなぜこんなに延々と続くのかというと、構図としては対立しているが、会話の中で対立軸が消失するためだ。
 だからどれだけページを費やしても、結論が出ない。

 ↑の会話を見るとよくわかるが、まず俊午は「芳根が言う『入山を阻止する』が何を言いたいのか理解できない」と言う。
 言葉通りの意味でしかないだろ、と思うが、芳根は「お前が友達だからだ」と「入山を阻止する理由」をもう一度「端的に云う」。
 ところがなぜか俊午は、「李兄は、私にどうしろと云うのです?」と言い出す。
 それはもう言ったよね?

 俊午の中では「入山しろという党の命令に背く」という選択肢はない。しかし自分が兄のように敬愛する芳根は、「入山するのはやめて欲しい」という。
 この二つの選択は対立しているのだから、後は俊午が「入山するか(芳根と決裂するか)」「芳根の願いを聞き入れて逃げるか」を選ぶだけだ。
 もしくはどちらも選べない葛藤を描くと思う。(それはそれでストーリー自体は進んでいる)
 普通のストーリーであれば、そのように「明確になった対立軸を前提にして」ストーリーが進む。

 ところが「火山島」は違う。
 俊午は話のそもそものきっかけである対立軸の存在を無視して、「李兄の問題の立て方がおかしい」と問題は芳根のほうにあると話を戻す。
「芳根の問題の立て方について議論しよう」と言い出すのだ。
 
芳根はそんな問題の立て方はしていない。
全然性質の違うものを並立させて、二者択一を迫る」というのは、俊午が勝手にそう解釈しているだけだ。
 なので一般的な話の流れにおいては、芳根の立場におかれた人は「そんな話はしていない」(実際にしていない)と言うと思う。
 仮にしていたとしても、それは話の本筋(前提)ではない。

 ところが芳根は「おう、たしかにおかしいだろう」と何故か「俊午が言う通り、確かに俺の問題の立て方がおかしい」と言い出す。
 そして「その問題の立て方がどういう構造をしているか」を話し出す。

「理屈に合わなくても、相手の意をある程度汲んだほうが説得がしやすい」というケースはある。あるが、この場合はそうではない。
 何故ならここから(そしてここ以外でも)話が明後日の方向に行くからだ。
 前提として存在しているはずの対立軸(議題)が、何故か話しているうちに消失してしまい、話がうやむやのまま終わってしまう。

「火山島」は特定の登場人物だけがそうなのではなく(キャラ設定でそうなっているのではなく)どの登場人物、どの組み合わせでもこのパターンで会話が成り立っている。

 だから一巻から始まる「龍鶴が有媛にしつこく言い寄る問題」は、六巻まで来ても状況がまったく変わっていない。
 しかも言い寄りかたが、とにかく電話をかけまくるだけで他のパターンがない。六巻だけで電話が何回もかかってくる。
 そのたびに有媛が「しつこい」「切らせてくれない」と愚痴る。だが結婚をはっきり断らない(これも何故なのかよくわからない)ので、このパターンが延々と続く。
 どうも読んでいると龍鶴のほうから断らせなけれいけないという縛りがあるようなのだが、それが何故なのかもよくわからない上に、結局は有媛はキレて断っている。
 何の縛りもないなら、最初からそうすれば良かったのではないか。 

 そのあと、芳根が恋をする蘭雪という女性が出てくる。
 芳根は、蘭雪は同僚の男とも関係を持っているのではないかという疑惑に苦しみ、同僚と一緒に飲みに行く。
 それを聞き出すために延々とページ数が費やされ、そして結局関係があったということがわかっても、それを蘭雪に問いただすわけでもなくうやうやのまま終わる。
 何でわざわざ確かめに行ったのか。

 万事が万事この調子で、「こうしたい」と思うことをストレートにやらず、ぐるぐると何十ページもかけてその問題の周りを回ったあげくに、あたかも「そんな問題はなかった」態で話が進む。

 そりゃあ一巻から間を飛ばして六巻を読んでも、違和感なく話が通じるわけだ。
 六巻で500ページ以上費やしても、話がほとんど進んでいないのだ。(逆に凄い)
 芳根が「蘭雪は誰とでも寝る女なのか」という悩みをグルグルグルグルグルグル考えている時は、壁に本を投げつけそうになった。
 そんなに気になるなら本人に(それとなく)確かめればいいだろ。
 何十ページ悩むんだよ。

 一体「火山島」は、なぜこんな造りをしているのか。
 これは「物語の欠点」ではなく、話の中に「共産主義思想に基づいた党組織への批判」を含んでいるために必然的にこういう作りになっているのではないか。


◆対立軸を理解してしまうと、即「反革命」のレッテルを貼られる。

「なぜ、俊午は『党の決定/自分を心配する芳根』という対立軸と向き合えないのか」
 それは「俊午が芳根の気持ちを受け入れることが、党への反乱とみなされる」からだ。

この「話が一歩も前に進まないグルグルする会話」自体が「支配者と戦い支配から解放してくれるはずの思想や理論が、人間的な感情を抑圧することへの疑問や葛藤、抵抗」を表しているのではないかと思う。


◆なぜ「党は間違えない」がデフォルトなのか。

 上記に上げた梁俊午の会話も、「党の命令は絶対→党は決して間違えない」という前提がある。
 自分も余り詳しくないので理解している限りになるが、なぜこういう発想がデフォルトかというと、「革命を先導する党は職業革命家のみで構成されるべき」という考えからきているのではないかと思う。
 理論に精通した職業革命家が労働者や農民を指導することで、革命は成就する。現時点で矛盾に見えることも、革命が段階的に進むにつれて、もしくはもっと高次の次元で解消される。
 なので低次の次元しか見えていない者は、矛盾に見えることでも党の指導に従うべきという考え方である。 
 こういう縛りがあるために、左翼・共産主義が背景にある話は(特に被指導層は)「党の指導=絶対的な正しさ」と人間的な感情のあいだで悩む描写が多い。

 この葛藤は「絶対的な正しさがあると認めつつ、人間的な感情もそれはそれとしてある」のような曖昧な着地点で済ませられるものではない。
「絶対的な正しさ(党の指導)を認めないことが、即反革命」となるからだ。(*「火山島」でもそういう話が出てくる)
 俊午が「対立軸そのもの」を受け入れられないのはこのためだ。

 個人の感情や感性から見るとどう考えてもおかしなことでも、「それは低次の次元しか見えないから、矛盾に見えるだけだ」という理屈があり、党の決定に従えないのは「意識が低いこと」の証明になってしまう。
「そんなことで悩む、党に対して疑問や不信を持つことが、理論を理解せず低次の次元に留まっている証拠だ。その自己の内部の矛盾を止揚(←よく出てくる)することで、高次の次元にたどり着ける」という理屈で世界観が構築されている。
 なので「内心の自由」もない。というよりも「個人の内心の自由をコントロールすることで、より良き世界を現出する」と考える。
 
だから俊午は、芳根の友情からの言葉を理解して受け入れることができないのだ。

◆なぜ、共産主義思想を受け入れることが難しいのか。

ここから先は

449字

¥ 100

この記事が参加している募集

読書感想文

歴史小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?